みみへん

文化の僻地に住んでいると、たまの東京出張は楽しみ。2時間の空きがあれば何かは見たり聞いたり歩いたり。で、こないだは鈴本亭で久しぶりに生落語を三本。
誰か掛けてくれないかと永らく待っていた替り目がとうとう聞けて、嬉しかったしまあ面白かったんだけど、私がずっと聞いてきた志ん生のとは当然違っていて、あ、やっぱりそうだよな、となった。

受験勉強の夜、ヘッドホンでテープがへろへろに伸びきるまで聞き込んだ、ホルストの惑星も、そのあといろいろな指揮者演者のCDを手当たりしだい聴いたが、どれも、あ、こうなっちゃうか、となってしまう。
演奏の上手い下手ではなく、好き嫌いでもない、たんに、リズムも音色も息づかいまで耳に馴染んでしまったものについては、似ていて違う何物かではもうだめなんだ、というだけで。本当に音楽が好きな人というのは、似ていて違う幾万ものバリエーションをこそ楽しむのだろうから、私のこの耳は音楽好きという範疇にはなくて、たんに最初に受け入れたものに愛着してしまう偏屈穴なんだな。微妙絶妙な味を選り分ける美食家にも、万人を愛せる心広い人にも、まったく憧れないが、耳の受け入れ間口が広い人は、正直、羨ましい。どんな世界がそこにはあるのだろうかと。

それはそうと、トリの太平さんの「一文無しってすごい」には笑った。上手かったなあ。あのリズム、声音、息遣いまで、今も覚えている。久しぶりに、丸ごと穴に収まる音源に出会えた。
あ、そういうことか。要は、器が狭いか広いかなんてどうでもいいんじゃ、新しいのを入れてけや、と。てんてけてけてけ。