Protest

#036

信教の自由に絡まる親の権利と子の権利と。この議論は、宗教者側にも報道側にも行政側にも、たいへん難しいものだろう。その難しさゆえに、できるだけ避けているのではないかと勘ぐってしまうほど。 ある人の権利と福利を護るために公に議論すること、そのも…

#035

#031に書いたとおり、系列宗派において手かざしの実践が医療ネグレクトに結びつき、子に深刻なダメージを与える「事実」があったなら、それは明らかにされて欲しい。そのような不幸は起こらないほうがよいけれども、事実がないまま「危険性」のみを報道で批…

#037

私が所属した宗派で、親から信教を受け継いだ人は(当然ながら)いらっしゃる。子が親の信教を継ぐ可能性を踏まえれば、宗教をしかるべき理由も述べず「子にとって害悪でしかない」と断定することは、その時点で子自身の尊厳を毀損している。子を盾にして無…

#034

私がずっと述べているのは、要は、「親と子であっても他者であると知って欲しい、できれば運営側の教導によって信仰者に周知されて欲しい」ということだ。しかし宗教において「他者としての人」は存在しない。その世界観に生きている信仰者の内心にも、正確…

#033

自分で信教を選び取った人は、家族と一線を引くことの「自分にとっての価値」を知っている。ならば親になったとき、子が新たに一線を引く(信教を継がない)ことの「子自身にとっての価値」は経験的に解る。だから、その時が来る可能性を無視せずに、自分の…

#032

「他人」のあたりをしばらく。 「私とあなたは他人だ」の(意味ではなく)意図は、私の養育者にはおそらく通じている。自分の意思で新興宗教に入信した人であるから。 日本伝統の信仰体系*1から脱して自分の信教を選び直すとき、それは家族から(一時的にせ…

#031

系列宗派の布教師のかた*1が、福岡市の事件に言及されていた。 拝見して、宗派内ではわりあい穏当なバランス感覚を持ったかたの文章と感じた。しかし私(離脱した信仰二世)としてはなお異議がある*2。 実践神学 - いづのめユニオン委員長のブログ http://bl…

#030

苦痛を抱えて迷いを持ちながらも医療を拒否し続ける、その心象はどのようなものか。 他人の心は覗けないので、私自身と近親者の例を踏まえて書くなら。 理由はひとつではない。症状を悪化させたこんな状態で今さら受診して、医者からなんと言われるだろうか…

#029

#018に書いたとおり、世界救世教系列の宗派内において、医療ネグレクトが原因で未成年者が亡くなることはこれまでにもあったと私は推測している。(福岡市の事件の当該宗派では、実際にあった。#003) 死に至らないまでも、本来なら快癒するはずだった疾患を…

#022

「子は親を選べない」と言うが、親も子を選べない。 選べない者同士でも、革めて他人に為ることはできる。 どちらかがそう望むならそう為るが善い、と思う。 親が子に向かって「今日から私とあなたは他人だ。あなたは私に何も期待するな」と決別することがあ…

#026

親が子を、自分自身に対する取り扱いと同等かそれ以上の注意深さをもって取り扱うこと。 一般的には批判されることではない。通常、それは愛の発露なので。むしろそれを怠ることこそが批判され、度を越せば罰せられる。 だが私が居た世界では、それが虐待と…

#021

大前提として。 個人における「信教の自由」について、憲法は第20条1項に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と。この一文のみ。*1 この一文には「信教に基づき、自分の身体を自由に処する権利」を当然に含んでいると私は捉えている。 信仰者…