36.地図#16

 ページを前に繰ってゆく。読める単語がぽつぽつ増えてきた。ここは数学、次は科学、首都の地理、歴史上の人物と出来事……どのページもそれほど傷んでいない。
 だがついに行き当たった。紙がへたるほど読み込まれた、ページ一枚ごとにハルの手の温かさが残っているかような場所――
 一瞬、ラタ、と呼びかけたくなった。
 そこには、人の気持ちや考えごとをあらわす言葉たちが、たくさんたくさん並んでいた。ウィルがよく知っている言葉、聞いたことのある言葉、まるで知らない言葉。こころの働きを現す言葉、言葉、言葉たち。
 ページを繰りながら、ウィルはしだいに恐ろしくなってきた。自分の知らない深い深い世界が目の前にある。うねり渦巻いている。この渦のなかにハルはいたのか? 毎晩毎晩、俺のすぐ隣で、こんな世界に住んでいたのか?
 手を止めた。なにか挟まっている。
 四つに折られ平たく伸(の)された薄い紙が、開いたページの間でピンと突き立った。
 そっと抜き取る。ランプの炎を強くし、慎重に広げた。
 
 あの人の名前。
 たくさんの人の名前。
 ガラン。ラタ。レオン・セルゲイ。ママ。ハヴェオ。グレズリー。ソディック。ネイシャン。マカフィ。ニッガ。バーキン老人。エマおばさん。ケイン。他にも。
 紙一杯に、それぞれの名前が陣取っている。さらに辞書にあった深く恐ろしい言葉たちが星のように散っている。散っていてもばらばらではなかった、そこには河の流れのような、ひとつの法則とたくさんの揺らぎとが見えた。明るく暗く、濃く薄く、高く低く、それぞれの名前を取り囲み、さらに名前たちの間を繋いでいる。道のように。橋のように。
 ハルの名前を探す。あった。左端に小さく座っている。エヴィーの名前とともに。
 その周りを指でくるくるなぞる。あるべき名前を探す。……無い。無い! どうして?
 そして見つけた。
 その名前はハルから一番遠い場所、紙の右端で、大きくふんぞり返っていた。
 二つの名前の間にたくさんの言葉がまたたいている。いろいろに、複雑に、光と影が明滅し、昼と夜を営み、相反するものが隣り合わせにあり、次々と変化し、誰にも入り込めない深い空白を持って。

 これは地図。ハルのなかに広がる森の地図。

 ウィルは紙を閉じた。ひとつひとつの言葉が自分のなかに侵入してくる前に。辞書に挟み戻し、ハルの寝袋の奥に突っ込んで、寝袋ごとたたみ封じた。
 
イメージ 1「Capital Forest」 -地図- 完話>>>次章 -ラタの谷-