みやさんへのお返事

昨年、「わたりとりの談話室(私設掲示板)」でみやさんからいただいた質問、「わたりとりさんは、なぜ書く(創作する)のですか」にお答えします。

みやさんは、ここの最初の読者様です。
※「麦太郎の旅妄想」続編では、「モノ書きの卵乙女」として登場していただきました。
創作小説を発信しているブログは、同好のブロガーとの交流が深いものではないかと思いますが、私のブログでは、創作をメインにしている常連様はみやさんお一人です。(※みやさんは現在、更新をお休み中)

さて、答える前にひとつ。みやさんも含めて、読者様にお願いがあります。
「Capital Forest」の正のイメージを壊したくないかたは、以下の文章は読まないでください。




私は空想すること・考えごとが好きだ。外部から圧力が加わらないかぎり自分の意志で止められないくらい好きだ。つまり中毒だ。麻薬を吸っているのと同じことだ。これが私の最も際立った特性であり、本性だ。自堕落な私は、一度この本性に喰われかけた。外に向かって伸びるべき時ひたすら内に向かい、自分で自分を潰しかけた。

私の空想は常にこんなふうだった。つまらない現実を自分に都合よく再構成し、欲求不満をありとあらゆる物語で埋め合わせる。現実逃避の夢、代償の夢であって、未来に踏み出す夢ではなかった。私は夢の中でヤりたい放題ヤった。人を喰いモノにしたし、殺しもしたし、世界を破壊したし、絶対者に化けて悦に入ったし、人々を破滅から救って得意の絶頂に立ったりもした。どうしようもなくしょうもないが夢想とはこういうものだと思う。しょうもなくとほうもなく楽しい。私の弱さも愚かさも邪悪さもくっっだらなさも、なにもかもあるがまま肯定してくれる。

私は、脳内にあるイメージを外に映写し眺め見てニヤニヤしたいから創作しているのであって、他に高尚な理由はなにもない。世に何か問題提起したいわけでも、高邁な理想を流布したいわけでもない。そういうことは作り話にせず普通に書いたほうがいいと思う。他人を動かすため、感じ入らせるため、反省させるために作られた物語を私は好かない。そういう物語は薄っぺらく卑しく感じる。私はまず、読んで楽しめる物語が好きだ。ニヤニヤできたら最高だ。それ以上の価値はオマケでいい。

意外に思われるだろうか。カピタルからは遠すぎる告白だろうか。あれはずいぶんお行儀の良い物語だから。だが本当の話だ。かといってカピタルが私のこころから離れているかといえば、そうではない。あれもまぎれもなく、私自身が楽しむために書いている。栞もそうだ。説教臭いことを書くのはキライだ。説教臭い部分があったならそれは私の信念の表出だ。

私はある年歳まで強烈なモラルと節制と利他的精神のなかで育てられた。私が自分勝手に解釈し捻じ曲げたために相当劣化してしまったが、この価値観は私のなかに根を降ろしている。この価値を信奉する【私】は外部から刷り込まれた偽りの精神なのか、それとも私の内から芽生えた誠の精神なのか、もはや私にはわからない。ともかく、意地汚いうえに自堕落な私の本性とは相容れない、やたらめったら生真面目な【私】がいるのだ。私は【私】を追い出せない。【私】は私の外ヅラを占拠している。

だから私は、最も好んでこころの内で繰り返してきた自己中で猥雑で陰惨なイメージをそのまま表現することができない。他者からの批評批判が恐ろしい以前に、そういうものを脳外にだだ漏らす自分を【私】が許さない。私が表現できる範囲はごくごく狭い。なにかを表現したいなら健全であれ光あれと、【私】が私に要求する。こういうのを抑圧というのだろうな。

しかし不思議なもので、【私】には物語を書く力が無い。外枠を整えるところまでだ。【私】は理想を抱いているが想像力を持たない。希望を述べるが夢を見ない。コチコチでカクカクでスカスカだ。だから物語の中身は、ふにゃふにゃでもやもやでじめじめしている私の本性が担当する。

モノゴコロついたころから延々と繰り広げてきた空想、内に抱え続けてきたイメージが、物語を通してたくさん表に現れた。弱いこと愚かなこと邪(よこしま)なこともたくさん現れた。なかには、私の人間性の重大な欠陥に通じた表現もある。こう書いてやろうなどと思っていないのに、ここぞというところで向こうからやって来て、これしかないという文章で【私】が用意した器のなかに堂々と座り、上を仰いでいる。私は思わずニヤニヤする。私の凡庸な文章のなか、その箇所だけが高みに突き抜けて見える。あるべき場所に収まって見える。よくぞ表に出て来てくれたと思う。

私は嬉しい。なんの役にも立たないと恥じていた私の本性が、無から有を生んだ。価値を創った。書くことで。それだけではない。かつて互いを弾劾しあっていた私と【私】が最良のパートナーとして手をつないでいる。表現するって素晴らしい。物語は偉大だ。

私はこれからも【私】の顔を外さないだろう。外せないというほうが適切かな。でも、いい。野放図に欲求のままに表現することも悪くないけれど、実はそういう自由な文章を羨望の想いで読むことが私は多いのだけれど、他人は他人だ。どうしても【私】を外せないという臆病さも含めて、私は私だ。

そんな私が、私自身を解放する装置として物語を語る。物語のあちこちで、私の本性が吼えている。
「この文章こそが私の核心ではないのか」
「だからこそ、私でない誰かのこころに深く届く表現の真価ではないのか」
【私】よ、聞こえますか。ざまあみやがれ。そしてありがとう。


みやさん、私は私を解放するために創作しています。書くことは楽しい。ここに至るまでだいぶ遠回りをしたが、して良かったと思う。その道程もまたネタです。全部ネタにしちゃいます。ひゃっほー。寝言みたいなことばかり言ってごめん。この文章はあなたの目にどう映っているだろうか。表現するって難しい。でも楽しいねえ。

とはいえ、私はなにしろ飽き性で怠け者ですから、読者様がいなかったらとっくに挫折してました。
みやさん、そしてみなさま、ありがとうございます。みなさまに幸あれ解放あれ(←大真面目)


では、全章完結まで、しばしお別れです!