手と錐

水底へ落ちてゆくイメージが薄まり始めるとときを同じくして、かどうか、そうであるように感じるのだが、別のイメージが私の独りの時間を占拠するようになった。

胸を前から錐のようなもので突き刺される。あるいは後ろから突き刺される。一度ではなく、必ず、三度。錐の先が私の胸を貫通する。血は流れない。穴も空いてはいないようだ。幻だが幻の痛みはない。幻の衝撃だけがある。ドン、ドッ、ドッ、とくる。

人らしき手が錐を握っているが、その先は見えない。顔も見えない。その手は私の手だ、という気はしない。他人の手だという気もしない。誰の手なのか私にはどうでもいい。ともかく手と錐とがある。私はその手のなすがまま、錐の切っ先と衝撃とを受け止める。

私には他人と離れて独りでいる時間がどうしても要ることを、職場の人たちは了解しているから、私は昼食を必ず独りで取る。さっさと食事を終え、数十分、ぼんやりと頬杖をつきながら外を眺めている間、幻の手と錐が五・六度は訪ねてくる。毎日。ああまたかと私は受け止める。
手と錐とは、私が独りで車を運転しているときも訪ねてくるが、こちらは稀だ。他者と在る時間には訪ねてこない。時と場をわきまえてはいるらしい。

手と錐が何を表象しているか、私は興味がない。いかにも「自罰」を表象していそうなイメージだが、私は自罰の欲求を自精神界から感知していない。また断言できるが、私に「自死」の欲求はない。「破壊」の欲求なら幼児の頃からあったが、そんなものはずっとあったし誰のなかにもある。なにをいまさら。

怖れも不安もないのだが。ただ、このイメージが訪ねてくるから旧い愛しいイメージが追いやられるように私から剥がれ去ろうとしているのか、そこが気になっている。それとも逆なのだろうか。旧い朋に去られた穴を新しい友が埋めにきたのだろうか。どちらにせよ、余計なことをしやがる。