不断

「差別は許されない」という理念の存在理由はひとつ。人はみな平等であるからではない。人は生まれたときからどうやったって不平等だ。不平等であっても、ただそれだけで人が死ぬことはないし困窮もしない。

「差別は許されない」、許しておくわけにはいかない、人にとって危険だからだ。人が他者を差別してよいと認定したとき、「人として対等でない相手」だと確信したとき、相手の苦痛への共振力は極度に落ちる。容易にゼロに振り切れる。その先には加害者自身にさえ抑制が効かない暴力の惨禍が口を開けて待っている。

差別の一歩前に蔑視が、その半歩前に偏見が、さらにそのニ歩前に無理解が位置している。他者に対する不寛容の態度はやすやすと進行する。手前で留まること、後戻りすることはひどく難しい。

戦争時、敵国の民は究極の被差別者と位置づけられる。国家によってそう認定される。共振ゼロ地点の風景が臆面もなく表出する「戦争」というものと、「差別」と、その前段階である「蔑視」「偏見」「無理解」が、私のなかで一直線に繋がっている。

自分の内に他者への無理解や偏見や蔑視の感情がある以上、私は状況しだいで「戦争に反対しない」選択肢を取りえる。おおいにありえる。そういう精神構造を持っている人間だ。
また、他者への無理解や偏見や蔑視を制御しきれない人間が憎む「戦争」とは自分と愛する者とを傷つける「戦争」にすぎないから、自分と愛する者を守るための「戦争」であれば彼の精神は交戦へと反転すると思っている。私はほとんどの日本人の反戦の表現を斜に構えて眺めている。

しかし、完璧でないからといって無価値なわけではない。首尾一貫しないからといってニセモノなわけでもない。それぞれに在る価値、それぞれがホンモノ。私はただ、多くの人たちが全くの別物だと捉えているものを連なっているものとして捉え、断ち切らずに連なったまま捉え続けることにこだわるから、自ずとこのような態度になってしまうのです。