企む・画く

#21」に書いたとおり、「Home away Home」は、誰の内にもある偏見と差別の精神構造を<私が>理解したいという動機で書き始めた。過去の自宗派が偏見の対象(新興宗教)であったことは好都合だった。これ以上のサンプルは無い。
「私のなかにこのような感情・このような精神が在る」と表現したものは、おそらく他者に向かって「あなたのなかには無いのか」と問う力を持つだろう。問うことが第一目的ではないが、そうできれば、なおいい。発信するのだから。

クリアすべき課題があった。私の記事じたいが「偏見と差別」の構造に取り込まれないようにすること。

新興宗教を全面的に擁護する(ような)記事を書くことは、賭けだ。擁護の度合いが一定のラインを超えれば読者は離れる。
対策はある。新興宗教に対して厳しい意見を適度に表明すればいい。「信仰は自由だが何をしてもいいってわけじゃない」とかなんとか折に触れて書けばいい。読み手は私を「マトモな」書き手だと認めて安心するだろう。
しかし、書きたいと思わないことを読み手に媚びて書くわけにはいかない。それは記事じたいが「偏見と差別」の構造に取り込まれていることを意味する。そんなもの、表現したってなんにもならない。

もう一点。私自身が新興宗教の信者だったと表明すれば、読み手は必ず気にする。「この人(わたりとり)の宗教ってあの▲▲か? 安全なのか? マトモなのか?」
世間は全ての新興宗教に同一の警戒心を抱いているわけではない、と私は感じていた。発祥が新しい宗派ほど警戒度は高い、それから、名前を出しただけで「関わりたくない」「関わらなければ良かった」と怖れを感じさせる宗派が幾つかあるはずだ。私の宗派名が不明であることは、おそらく読み手にストレスをかける。コメントもブクマも付かなくなる、かもしれない。
しかし、そのストレスこそが核になる。読み手には私の過去の宗派が▲▲なのか違うのかわからない、ということに拠って、私の問いは実地的になる。「なぜ、そんなことが問題なのですか。私が何を言うかより、私の属性が問題なのですか」と。

自分にルールを課した。
(1)自宗派の名称・創立時期・系統を伏せる
(2)自宗派がある特定宗派(▲▲)であるか・ないか、判別可能な記述はできるだけ避ける
(3)他宗派を貶めるような表現は厳重に慎む
個人情報を特定されないための自衛策でもあり、偏見から<わたりとり>を守るための策でもある。それ以上に、新興宗教のなかでも特に世間の拒絶反応が強い「幾つかの宗派」を私の連載から切断しないためであった。私と彼らは同じではないが、「偏見と差別」というテーマの前では同じであるし、同じでなければならない。

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思ったことを思ったまま書いても絶対に伝わらないことがある。
それでも伝えるために書きたいならば、「表現」には、端直さ以上のものが求められる。「企む(たくらむ)」ということ、「画く(えがく)」ということ。構想、戦略、戦術、企画、アイデア、ひねり・・・といったもの。全体の構成と形式と「語られなかった」空白とが、文章と合わさることで、ひとつの表現として像を結ぶ。「創作」と言ったほうがいいかもしれない。

ネット上のコミュニケーションを見るほどに、なんらかのマイノリティに属する人・相対的に弱い属性の人(女性・若年者など)が表現することは悪意を招きやすい、またマジョリティの人であっても、なんの意匠も無い無防備な表現もまた悪意を呼び寄せやすいことを私は知った。
人々が、ただ表現するだけでなく、「企む」「画く」「創作する」ということを少しでも身に付けられたら良いなあ、と私は思う。率直に語りながらなお、言葉に遊びを持たせること、比喩や詩を交えること、敢えて語らない空白を置くこと、記述をシンプルに分けつつ連綿と繋げること、とか、いろいろ。

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「Home away Home」に仕掛けた私の企みは有効だったろうか。そこはちょっと気に掛かる。しかし読み手がどう感じたか・評価したかについては私は関知しない。それは「表現」とは別の次元の話。




食うべき詩(3)
トンコさんの記事中のキーワード「表現の社会性・政治性をどう考えるか」にリンク。
なんちって。カピタルをお褒めいただいて、嬉しかっただけ。そんだけ(笑)