精神、肯定、循環、率直な表現





自己と他者の否定、の、否定とは?

いかなる分野においても自分は優れたところが無い、と信じている者は、他者を無理やり見下すことによって相対的に自己評価を高めようとする。揺るがない自信のある者は不愉快に思うだけだが、そうでないものは深く傷つく。

同意する。私が二年半積み上げてきたログを知っている海風氏ならば、ご存知であると思うが。私は「他者を見下す言動」「他者を攻撃する言動」を全く好まない。単に見聞きしたとき不快だからということではなく、そのような言動を取る人間の精神のありようを好かないし、攻撃の対象となった気の毒な人の自尊感情がひどく傷つけられるという点でも許容できない。
前記事の「表現と言論、その自由と制限」に記したとおり、公開の場で他者に言及するという行為じたいを私は重く見ているし、私自身はかなり自重している。自分の言葉が相手にどのように作用するか、対面コミュニケーションでないネットでは測り難いからだ。

ただ、私は「他者を無理やり見下す」という人の精神のはたらき自体を「人の摂理として自然なこと」とも感じている。程度の差はあれ誰の中にもあるし、現に在るものを否定しても仕方がないし、否定してもその精神はますます見えにくい所へ潜って歪んでゆくのではないかと思う。

私はそのような選択肢を取る者を憐れには思うが、尊重することはできない。周りの足を引っ張るのをやめないのなら、切り捨てる。
切り捨てたくはないから、せめてこう考えればまだ楽になるのに、と思う。

私が「尊重」しているのは、私自身のことも含めて、どうにも御しがたく厄介な人間の精神のはたらきそのものであって、目の前で展開されている、他者を見下す・攻撃する具体的な「態度」「行為」はむろん尊重できない。念のため。
しかしだからといって、問題行動を取る「彼」の精神のはたらきそのものに介入したくはない。理由は二点。

一点目。他者を攻撃したわけではないが、非常な問題行動を繰り返していた期間が、私にはある。私は、そのときの自分の精神のはたらきを大切に思っている。周囲にたいへんな迷惑をかけたが、あの時の自分のこころのありようはあれ以外には無かった。あの時の私の内界のありようを否定したり矯正されるべきと指弾するような存在を、私は恐れる。そのような存在を許さない。現在の私の礎となっている過去だからだ。
そうして私は、他者に対しても、彼の内界のありように是非の判断を下したくないのである。

二点目。ある人が自分自身に否定的である結果、他者に対しても否定的であったとする。そのとき彼に掛けられる言葉が「あなたの考え方を肯定的にしなさい/したほうがいい」であることに、私はなにか矛盾を感じる。
肯定的になるために、否定的である現在の自分をさらに否定する・・・私には釈然としない。ロジックとしては通るのだろうか。だが私の腹に落ちてこない。私が志向するのは、やはり、自分がどのようであろうと変わろうと変わるまいと絶対に肯定されていると感じる「何か」を確保したところから、ならば肯定されている/肯定されるべき存在は自分だけではないのだという確信を育んでゆく、そういう循環なのだろうと思う。だからこそ、どのようなものであれ彼の「率直な表現」は肯定されなければならない、私にとっては。

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以上、ここまで掘り下げれば、論点(3)について私が論じられる箇所はおおよそ見えるだろう。

私は精神疾患・障碍に詳しくない。申し訳ないが、対峙する相手の症例の特性ごとにどのように接するべきかという話題にはろくに応えられない。
しかし。「言葉のやりとりだけが頼り」というネットコミュニケーションの特性を踏まえたうえで、対人コミュニケーションに難を抱える人とどう接したものか(※どう接するべきか、ではない)、許容するかしないかの一線はどのあたりに引くのが妥当だろうか、ブログ等のツール(私流に言えば「場」)がこのテーマに関わるときどのような策があるか、といった論題ならば、自分なりの考えを述べられると思う。

論題によって私にも得手不得手があるというだけで、今後の展開にとくにこだわりはない。海風氏に一任します。どのようにでも、どうとでも(笑)