つる。つれづれ。ずらずら。#4

前の記事を書いたあと、妙に引っ掛かった。子はたしかにちょーちょーちょーちょー歌ってたが、「ちょーサイアク」とは言ってなかったような。で、思いだした。「めっちゃサイアク」だったよ。言われたの1回か2回だし。すこーんと言われて思わず笑ってしまったので、あのときの声音まで強烈に覚えているが。
あと、「『喰い付きたい』感覚が口の中に広がって」のところも、やつを味いたい感覚を呼び起されたわけじゃないんで、この表記は違う。胸骨から首筋、頬、顎に掛けてぞぅっとする感覚が走り昇って、としたほうがまだ正確か。身体感覚を書き表すのって難しいな。一度きりの感覚はそうそう覚えていないし。それでもできるだけ覚えておくようにしている。私が不思議だと感じるものの筆頭は、生物体としてのヒトと精神体としての人とが彼方(かなた)で稀に幸いに結わえられているということなんです、たぶん。彼方だ稀だと感じるのは私ひとりであって、たいていの人にとっては目前で日常のことなのかもしれないが。そうである人を、私は、羨みはしないけれども、ああいいな、とは思っている。自分の精神いっさいとそこにさざめく感受の律動とが、自分の身体と生理とにぴたりと寄り添っている、そういう人としての生命があるなら、それは幸いでなくてなんだろうか。というより、そのような人が幸いを感じられないものが「社会」であるなら、私はそれを善きものとはけして呼ばないぜよ。
自身の衝動を十全に制御できない人を指して、「獣」と当然のように呼ぶ人がもしいるなら、如何なる人であっても、仮にその人がとある「獣」に徹底的に傷付けられていたとしても、私はその人によく寄り添えない。私が「善きもの」とはけして呼ばない社会、その社会に安住したい、その社会でなければ安住できない人なのだという感がするので。先方もまた、私のような感覚の人間が溢れかえる社会は願い下げだろう。それでよいと思う。ただ、同時に、こうも思う。その人の痛みに寄り添う人が多くあってほしい、そのような社会であってほしい。ただ、その「寄り添う人」のなかに、私は入れない。
私はまだ諦めていなくて、この断層をものともせずに私に話しかけてくる「あちら側の人」が現れやしないかと、期待していたりもする。私はこの点では相当頑固なので、ほんとに期待してたんかワレっちゅーくらいに不躾に不貞腐れた態度しか見せないだろうと予測するが、やっぱり期待してはいる。出会いは天の采配ですが。カンフーパンダの亀爺のセリフは良かったのー。「言うでしょう。昨日は過去のもの。明日は未知のもの。今日の日は儲けもの・・・それは天からの贈りもの。」声優が渋かったね。英語は「yesterday is history, tomorrow is a mystery, but today is a gift.That is why it is called the present.」。中国語だと・・・どうなるんやろ。
 
話おもいっきりズレますが、最近では事業仕分けと基地移設問題のニュースをずっと見ている。事業仕分けは、もうなんつーか、おまいら理念は悪くないのに何でそんな質問が場当たり的なんだ、少なくとも事業と経費は別けて問え、事業を問うなら事業目的と事業計画と結果の整合性が論点じゃないのか採算性は事業体設立の目的に照らして理想値をまず示させてから達成率で勘案してくしかないだろうよ公益法人てそもそも民間がやったら不採算の事業を「公益性」の観点からやるために在るんだから赤字かどうかが仕分けの軸ておかしかろうよ真っ黒黒字ならそれはそれで不正蓄財視するし天下りが不正で高給が不当ならそこだけ制限かける手もあるじゃんだって事業廃止する権限があるんだから廃止するかどうか決めるならその事業に公益性がアルカナイカ民間で十分運営デキルカドウカこそが判断の軸なんじゃねーのかいそういう論旨の議論ほとんど見たことないんですけどくっそーーてなもんです。私は事業仕分けじたいは肯定なんですがね。あのやりかたでは、この国の中層にあったインフラはもうダメかもしんない。そこにあった金を下層の資源充実に充てればよいという反論はあると思うし、実際そうすべき金も相当あるだろうとは思うんだけど、中間団体が個々をゆるやかに連帯させた自律分散型・ネットワーク型の社会を好む私は「中層」の働きを重く見ていて、やっぱし今のあのやりかたは、見ていて不安のほうが募る。
 
基地移設問題のほうは、何か意見を言えるほど予備知識がない。日本に基地は不要と言う覚悟は、私には無い。在るなら、立地の条件はあるのだと思うが(平地であること、海岸に近いこと、気候が温暖であること)、自治体ごとに応分の負担をするべきだと。私の居住地か出身地に移すという話が上がったなら、私は反対しない。・・・ただ、原発基との距離からいって、候補地にはまず上がらないとは思う。
米軍の逗留が東アジア全域の平和と安全にどうたら、という大層な話は、言葉としてはわかるが、私の実感はちょい別様のところにある。米軍が日本から全撤退したとき、まず私が思い浮かべるのは。日本の領土が侵犯されることはまずないとしても、領海と領空ではちょくちょく冷やりとする出来事が起きるであろう、そのとき、領土・領空・領海というものに自身の手足に近い所有感を持つ人、つまり身体感覚にごく近い感触で侵犯行為を捉える人、つまり他国との境界域での小競り合い現象を不当な「レイプ」と感じる人、・・・が、国内には一定数いる、というよりどの国にも相当数いる、ことを考えると、その不安をバックボーンに従来からは予測できない勢いで国内情勢が動いて行く、というより圧倒的な潮流に流されていく可能性は・・・低くはない。と。私には。
 
逃げ口上を長々と述べてしまった。
海風さん、ごめん。