つる。つれづれ。ずらずら。#8

肝心なことぜんぜん書かないまま一本終わってしまった。酒飲みながら本読んでるうちに電気つけたまま寝てたよもう朝か、みたいな、どうでもいい後ろめたさと幸せ気分ね。さて肝心なこととはなんでしたろうか。あそそ、「虚構と現実の区別が付かない」がほんとかどうか。あそそ、ここでいう「虚構」は、殺人とか暴行とかふんだんに盛り込んで人の嗜虐趣味を満たす創作物、くらいの意味ね。
 
「虚構と現実の区別が付かない」が、どんな心境なのか、私にはわからんです。未経験。
「妄想と現実の境目が曖昧になる」という領空なら、視っている。その瞬間を待ちながら寝た夜もたびたび。若い頃は。境目の曖昧なうつつどきなんぞ朝露ほどももたない。だから、「このまま覚めないんじゃないか」なーんて不安もなく自ら繰り返し訪れようとした。ああ若かった。いつ頃からか、済んだはずの記憶が夜夢に受け継がれ朝方の朦朧に紛れて現在の現実に混濁することがたびたびになった。あれはしんどい。ぞっとするほど長いし。ああ歳とった。境目が曖昧なのはこの身体の仕様だろうか。
 
「虚構と現実の区別が付かない」ということが、本当にあるのかどうか、私にはわからないが。他人事としてそれを簡単に口に出す人がいるなら、私は疎ましく思う。本当にあったとしても、そんな簡単にそんな域に行けるわけねえだろ。語の意味だけすらすらつなげて話してすらっと意味が通じたのだからこれは本当に在る話だと言わんばかりの人って、信用ならねえ。今夜は悪態が冴えている。なんか憑いてるかも。
「虚構と現実の区別が付かない」人がいたとしても、区別が付かなくなる程ならば、彼ら彼女らが虚構に浸ってる時間はけして短くはなく、その長い期間に、現実をおもうまま愉しめない自分の内心を視ていないはずは無く、虚構と現実を往来する自分をはっきりと見下ろしている「私」が生まれていないはずは無い、と、私は思うよ。私よりススんでいる状態なら、それくらいの経過は通過しているんじゃないか。
毎夜毎夜 虚構と現実が隣り合う瞬間あわよくば重なり合う瞬間を待つ、だがそれらが「同じである」瞬間は来ない、「来ない」ということを毎朝、知るのですぜ。よく知ってますわよ。虚構と現実がいかほど離れ離れであるか。いかほど虚構に浸りきった妄想脳であっても。べつに落胆もしないけど。日常なんで。
 
その果てについに「虚構と現実の区別が付かない」という地平が開けた、とする。・・・。うーん。未経験にて解らぬ。そこにあるのは歓びだろうか。私にはそうは感じられないが。苦しみだろうか。そうとも感じられない。うーん。ただ、おもふまま、だろうな、とは思う。あるがまま、というのではない。「おもふまま」だろうな、と。そこに往きたい、とも、住みたい、とも、思わない。が、「触れてみたい」、という感覚は捨てきれないかなあ。
 
その境地に往ったままという人が、隣に居たとする。私は怖れる。
虚構の内には「他者」がいない、のだが、それだけでなく、「他人」も居ない。つまり虚構のなかに閉じられた人の中に彼以外の「誰も」存在しない、彼の世界が邪悪とはかぎらないが、彼によって私はいつでも消されうる。正確に言うと、私の「姿」と「痕跡」が消されうる。消されるときは、徹底的に消される。私は私自身の虚構を通して、それを視っている。
 
ところで。世の中には実際に残酷非道な犯罪がいくらでもあって、なかには、その手口からして「虚構と現実の区別が付かない」まんまじゃないかと思われそうなものもある。んでも私は、「そう思われるもの」のほんの一部じゃないか、という感がする。根拠も裏付けもない。なんとなく。ただ、他人の群れのなかで私がゼロ地点に居ることと、誰もいない虚ろに私がおもふまま在ることは、同じことではない、と感じる。他人を自分の都合にあわせて弄り殺すさいに見聞きした刺激的なあれやこれやを模倣することと、自分の虚構のなかで自分の挙動のいっさいに意義を贈りながら或る姿を消し痕跡を消して廻ることとは、同じではない、と感じる。行動の様態が同じように見えるだけで、一層下に潜るとまるで違う、という感。「ルート」がまるで違う、という感。
で、後者として在る人は、たいへん稀だ。と、私は感じる。ただし、「ルーツ」もまるで違う、かどうかは、解らない。うっすらと、どこか遠くで起点を同じくしていそうな・・・感も、ある。わからんが。ここまでくると、もう寝言ですな。そろそろ寝るか。
 
あそそ。んで、私には妙な予感があるんスよ。
「あなたにとっての姿として私」が「あなたにとっての存在としての私」に転換する地点、「他人」が「他者」へと転換する地点は、人をヒトデナシとする二なりの厄禍、「ゼロ地点」と「その境地」の先に在るんス。私個人にとっては。るるるるる。