つる。つれづれ。ずらずら。#10

西鶴の作に名器を列記した箇所がある、と何かで読んだ覚えがある。・・・。この語がこの意味でこのブログで初出する日が来るとはね。ああ場が穢れるなどとは思わないが初出かよ。「名器とまではいわない、せめて三十万でポンとギターを買いたい」くらい凡庸なことをどこかで書いとんくんだった。
んでまあその列記なんだが、それぞれに名前が付いていてどのような感触かというのが書いてあるらしいんだす。たとえば「蛸」とか。蛸しか覚えてないけど。がっぽり抱えて弾力強く吸い付く感触みたいなのをそう呼ぶんですよ。なんつってごめん、いまのは蛸から私がテキトーに連想した。私がたまたま読んだのがXX生物側だっただけで、XY生物側のほうの名器列記もあるかもれない。無いかもしれんが。
 
どっかでちょびっとカジっただけのあの話、なんで覚えているかというと、現実の「体感」を愉しみの中心に据えた娯楽、というものを享け手(書き手もその中に入っていたりする)に想起させて愉しませる虚構、というものが私には不思議だったので。その文章の何がどう人の肌の内側に作用するのだらうか、わたくしにはわからない。いまだにわからん。んで、あれ以来、ひょっとしてこれが娯楽としての正常さ・・・というか敢えて言うなら「健全さ」なのではないか、という感がしている。まったき健全かどうかはわからないが、不健全とは到底思えない。
対比として。私の愉しみかたというのはかなり「カタリ」に偏っていて、私が繰り返し愉しんだものっつーのは、ヤることそのものじゃなく、そこに至るまでのあれやこれやとその後の始末の付け方をでっかい球でくるんで最後に破裂させるカタストロフィィィィ、みたいなものなんだよね。書いてて我ながらバカバカしいけど。経過すっ飛ばしたインスタント妄想もないわけではないが、脳内で5年以上引っ張ったシナリオもあるわけである。で、自分のことを異常とは思わないが、「蛸」とか書いてあっけらかんとしている奴やらそういうのをフツーに愉しむ奴やらからすると、私の愉しみかたって、なんつーの、偏執というか妄執というか、キモいと表現さるるに相応しい粘りぐあいじゃないか。あ、飴細工みたい。嘴にくるくる絡めてこっち側をつまんでひねればうにょにょ~とどこまでも伸びます、形も自在、どやおもろいやろ、お嬢ちゃん気に入ったんならひとつ買うて。そうかこのブログはお祭りの飴屋台だったのだ2005年2月18日のはじめからそうだったのだまいどおおきに。せやけど射的とかのほうが坊らはおもろいやろな、パンとウったらピコっとアタるわ、まーアタったかてそれがなんやっちゅーもんやけどな、すぐ終わってしまうし、せやけどおもろいで。城崎行ったとき、おっちゃんも童心に帰ってやった。
 
射的なら城崎のスポットパワーで愉めたが(あそこはそういうの無性にやってみたくなる鄙びさがあるのよ)、視覚から入ってくる感覚も、私にはちょい微妙。愉しめないわけではないが、いやモノによっては愉しめるんだけど、長く続かない。視覚から入ってくるものに対しては、露骨になるほど私は嫌悪感のほうが凌駕してしまう。このへんは自分でもちょい不可解。そもそも人の身体(というより裸体か)を美しいと感じない、というのが基盤にあるようなんだが、嫌悪感まで持たなくてもよいだろうに、と思うが。老若男女問わず唇を接写した映像じたいがわりと苦手。なまなましうてイヤだ、てな感。で、推してしるべし。
全般的に、視覚から入ってくるものを愉しむという感覚が弱い。創作するときも視認が関わってくる文章には集中力が要った。脳内で映像が結ばれるのを待たないと、書けない。視て愉しむ、視ることから感受するという経験に私は乏しいのかもしれない。いや、でもあの小さいシールは可愛いと思う。手帳の目印にごく小さい付箋でも貼ろうかと思っていたとき、子の行くファンシーショップ(でいいのか?)で見つけたシールシリーズがすごく可愛ゆかった。あれは視て愉しんだ。平たくないのはさらに愉しい。あんなもん手帳に貼ったらボコボコして書けんわ、と思ったが、あれはいいねえ。どこに貼ろう。
 
耳から入ってくる感覚は・・・音ね・・・控えめなほうが好きだ。そうであれば、好きだ。とても好きだ。
 
総合すると、むっつりスケベ と括って大正解、という気がする。
 
何が書きたかったかというと。
人の感覚ってのは互いに交流はしてるがそれほど安直に結びついてはいない、統合されてはいない、危なっかしという傾斜においても、危なげないという傾斜においても。と、私は自分自身を通して理解している。私が提出できるものは私ひとりのものでしかないが、他人の感性と感覚を俎板に上げて「危うい」と名指すことは私はまだできない。誰かが危ういなら、まぎれもなく私も、危ういだろうと思う。