つる。つれづれ。ずらずら。#14

前記事は字数制限に引っ掛かって妙なところで終わってしまった。上限5000字で困ったのはこれで2度目か。字数せめて倍にならないかしら。
 
人が十全の責任を負えるのは幾つからか、私には本当にわからない、と書いたのは、本音でもあるし嘘でもある。幾つから?なんて訊かれても私は確信をもって答えられない、という点で本音、誰もが答えられないはずだという確信を持っている点で「私には」とわざわざ断り入れている点が嘘。
 
前記事の冒頭で紹介した映画もそうだが、未成年者が人を殺す事件は衝撃だ。単にびっくりするというのではなく、その事実を知った人の精神に癒えない疵を穿つ、というような。精神分析上どうこうは私にはわからないが、社会で・世間で合意されていた「責任を負う/負わない境界線」をたった一つの事件が動かしてしまうほどの衝撃だということは、わかる。神戸連続児童殺傷事件以降、少年法の適用年齢を引き下げよという論は繰り返し出ている。イギリスではジェームス・バルガー事件がある(加害者は十歳の少年だが、法務省の許可で実名と顔写真が公開され、成年者と同等に刑事事件として裁かれ刑務所に服役した)。
 
自己決定権(もちろん基本中の基本の基本的人権)の制限が解除される年齢は、ひとつではない。たとえば日本での「家族」「性」「経済」をめぐる権利でいえば、自分の意思で養子縁組ができるのは14歳、婚姻を結べるのは女性は16歳(親権者の承認が要る)、借金できるのは20歳からだ。ちょっと変わりどころでは、信教に基づき輸血を拒否した者が未成年者だった場合、医療者が本人の意思を認めるのは15歳以上から、となっている(合同委員会の2008年素案)。未成年者における権利と責任の設定は段階的であるし、私もそれが正当であり妥当だと思う。
そのうえで。殺人行為に対する責任の問い方については、その行為が「重大であるから」境界の設定が引き下げられてよいのではなく、その行為が公的にも私人間でもいかなる場でも明白に「禁止」されており、禁止の規程が完璧に繰り返し繰り返されているから、つまり、「子供でもやってはいけないと理解することが容易で、さらに、この規定が一生覆されることはないから」、引き下げることは可能だ、と私は思う。ただし、引き下げることが可能であっても、加害者の処罰より更生の可能性に掛ける少年法の「精神」を、私は支持する。
 
私は、「子供は【個人】としては容赦ない生き物だ」、という感覚を持っている。社会に出るまでは、集の威力を恃むだけのスキルもネットワークもほとんど保持していないから、そういう意味では無力だと思うが、(※逆にいえばいわゆる「大人」の力の源というのは集の威力に他ならない)、それを除けば、発達していくにつれ個人に根差した欲求と欲望を大人と同等に保持している、と私は思っている。
で、そいじゃ実際のところどうすんの、というとき、私が確認し判断の拠り所にしたいのは、人の「発達」を対象にした科学的(計測的)な見解と、発達の段階に立ち会い続けてきた専門職のかたがたの集合的な知恵と、経験者(すべての人が一度は「少年」だった)の本音の証言の集積と、・・・、あたり、なんだよな。むろん、これだけの証言がそんな簡単に揃うわけもなく、検証され分析され現実に応用され、というのははるか先だろうけれども。けれども、少なくとも、「その事実を知った人の精神に癒えない疵を穿つ、というような衝撃」の後に、そこを見ることも診ることも看ることもできない精神が「祭壇」を「信仰」を繰り返し強化していく、そんなような運動の中に、私は入りたくない。 


 
出産後 同日退院する母親を集めて、医師が今後の注意事項など話す場を見学させてもらったことがある。もうだいぶ昔だが。いまだに忘れられない。
 
巨漢の丸顔の四十歳くらいの「これは子供が懐きそうだな」という風格の小児科医で、子供は体温高いんで一枚着せたいところを一枚脱がせてちょうどいいの、爺ちゃん婆ちゃんの世代はむやみに着せたがるからねえ、一枚着せられたら中に着てる一枚を抜いときなさい、着せてくれた服を脱がしてわざわざ喧嘩せんでいいから、みたいな、共働き家庭が多く爺婆が孫の面倒あたりまえにみているに県民事情に即したウラ技をぺらぺら喋る。・・・この先生、パドの造形に入ったかもな。体型とノリがまんまやんけ。
で、彼が続けて言うには、赤ん坊が泣きだしたら上のお子さんがお母さんにむやみに懐いてきた、ってときは赤ん坊は放っておいていいんです、5分10分放っておいても赤ん坊はどってことない、上の子のほうが気持ちってものがあるのでそっちをかまってあげるんですよ、と。なるほどなーと思っていると、彼は冗談の尾ひれのように、かるーく続けて言った。赤ん坊の事故死の原因で一番多いのは、上の子です。表には出てこないけどね。
しめくくりの話は、「そんなこと言う裁量があなたにあるのか。いや上も認めてるんだよな。へー」と私が驚くことを言った。お母さん達もうどうにもしんどくてダメだとなったら赤ん坊連れてこの病院に来なさい、どっちも病気じゃなくてもべつにいいのいいの、病室だけどね、子供と離れて一晩ぐっすり寝てけばいいんです、それでずいぶん違うもんです、預け先が病院なんだから子供のほうは心配ないでしょ? だと。
 
あのときは、あっけに取られているうちに彼と別れてしまった。しまった。もう一度彼に会えるなら、あの授業のあと、私は彼に頭を下げて握手をお願いしたい。
なんというかな。現場でケースワークを積み上げた専門職の凄みといったもの、組織の強さを活かしながら個人の裁量を最大限働かせる器のありかたといったもの。歳を取るほどに、見事だと思う。
 
ただし。彼が母達に伝えたこと約束したことを、全ての小児科医院で実現できれば(要は「標準システム」として確立させれば)問題は解決するのか、母親は自分の責任を全うすることができ、年上の子供達は(あるかどうか定かでないが)負うた責任に苦しまずに済むのか・・・といえば、私は、それは無理だ、と思う。全ての小児科医で実現することは現実的には難しいから、ではなく、システムとなったその時点で彼が話したことの意味合いが変質してしまう。
固定観念に対しての逆説、一般的な建て前に対しての個別的な本音、本来のルールに対しての例外的な抜け道といったものが確かにあることを隠さずに教えてくれることは、人をほっとさせ、物質面以上に精神面で人を支えてくれる。だが、正に対しての副、補、脱といったものは、副、補、脱だからこそ働くという性があって・・・難しい。
 

 
そもそも性愛を対象にしていたはずの話が、虐待だの殺人だのの話題にまで飛んでいるのは、私のなかでそれらが断絶していないから、だろうが、なんで断絶していないのかは自分でもよくわからん。なんでやろ。
べつに「性愛とは一種の暴力みたいなもの」とか思っているわけではないわのよ。暴力とイコールだったとしても、そこに引っ掛けて虐待だの殺人だのを連想しているわけではない。たぶん。「やむにやまれぬもの」としての性、あるいは虐、あるいは殺、ということだろうと思うのだが。その「やむにやまれぬもの」が集によってタブーとされ個の意識において「無かったこと」にされていく・・・で、その後はどうなるんじゃろ、という。
 

 
以前、光市の母子殺害事件の被告を対象にした記事を読んで、私は自分用にこのメモを付けた。
刑罰,量刑, *永い宿題 『反省とは、罪を認めるとは、こうした悪あがきを散々やって、その極北でようやく可能になること』同感/しかし制度が「その時」を前提に構築されるべきとも思えない。私には、他者の内心への過干渉のほうが疎ましい。
私とあなたとの関係性のなかに、第三者が裁定人として入り、人倫という普遍の価値にもとづいて「反省」「悔悛」といった内心の動きを当然のこととして求めることじたいを、私は否定する。そのような必要はないと言っているのではなく、そのように断罪(裁定)することを許されている人間は存在しない、という想念において否定する。その延長として、司法制度がそんなものを前提に構築されるべきとは思わない。
ならば奪われた者、犯された者、殺された者の尊厳はどうなると問われれば、身も蓋もなく、ヤったほうが反省も悔悛もしないなら、変節した因果応報の観念に照らせば、「踏みにじられたままだ」と思う。
ここでいう変節した因果応報の「応報」は懲罰ではなく、贖罪のこと。社会が懲罰のシステムを保持することは正当かつ妥当だが、贖罪のシステムを公然と保持することには反対する。社会制度として懲罰の代用に贖罪を促すような言説にも同意しない。リンク先の元記事にはすまんですがね。
善悪を定める社会ならば、懲罰というルールは要る。懲罰なしの規程(禁止の文言)だけで善悪を別つことは不可能。で、懲罰と贖罪とを取って変えてはならない。私は死刑に反対だが、死刑が被告の反省の機会を奪うからではない。どのような人も、社会から、公然と、「死ね」と拒絶されてはならない。
なお、宗教者が普遍の価値にもとづいて「反省」「悔悛」といった内心の動きを求めることは、理解できる。また、その言葉に導かれて当人が反省なり悔悛なりすることは、否定しない。自分が得た縁を契機に改心することは当人の勝手であるし、宗教における「改心」は贖罪ではなく自己救済なので。(その目的がたった一人の人間の自己救済だからこそ、宗教者は相手が誰であっても、改心することを強要も強迫もしない)。
 
ここまで、間違いなく私の信条だと思いつつ書いて、もっと上に書いたこの文章を思い出す。
加害者の処罰より更生の可能性に掛ける少年法の「精神」を、私は支持する。
少年なら更生に掛けるが、成人なら「内心に干渉するな」って、おもくそ矛盾しとるやんけ。歳で別けるとしても、そいじゃどこまでが「少年」やねん。
 
「少年」と「成年」の境界ね。十八から二十五あたりのどこかあたり、個人差はある、という感覚だな。成年者と少年とで私の思うところが逆転するのは、少年は発達途上だと思っているから・・・人格形成の途上だから、と言ったほうがまだよいか・・・少年の人格を見くびっているつもりはないんだが・・・途上か。
未熟という言葉に置き換わるとどうだろう。「未熟」か。「成熟」に対置する「未熟」、ふだん私は、未熟という言葉にはそこから脱するべきという否定的な価値づけを、成熟という言葉には望ましい域に達したという肯定的な価値づけを込めて書き現すけれども、この件(少年の更生の可能性)については、「成熟」というものをある種のハンデ(否定的な価値づけ)と捉えている・・・うーん。
 
あかん、他人に通じる言葉のなかに、私にとってのこの件のど真ん中を言い当ててているものが無い。
さて、どうするかな。