おばかさんぶん。

あれこれ造り続けていればおのずと、構築物というものには出来の良い設計とそうでない設計が歴然と厳然とあると解ってくる。
もちろん設計者によって採用する「良さ」の核は異なるし、構築物それぞれによって採用されるバリエーションも異なってくる、けれども、ひとつの構築物においては、ひとつの設計思想が全体において細部において全てにおいて貫かているということ、意味のないものは無いしこれからも入り込む隙が無いということ、その構築物の一切の未来が設計というたった一地点の過去の作為によって予言されているということ、そういう不可能に設計者が挑んだと明瞭にわかる構築物は、出来が良い。
自分の好みは別として、要するに、わかりやすく完成度が高いし、時間が経過してもその完成度が急速に損なわれることはない。

完成度の高い構築物に触れたとき、私はその空間を心地好いと感じることを、身を預けたいという憧れを持つことをやめられない。どちらかといえば、私は、無秩序よりも秩序立てられた物事や状態の方を好む。


んでもな。

十年後の自分を想定して夢の実現のストーリーを書いて提出しろと、と言われたとき、私ははっきりと嫌悪感を持った。こんなバカな自己啓発を世の中に流行らせやがった誰かを呪いたくなった。それだけのことで、この職場に定年まで勤続したいとは思わなくなった。

過去の一点から、まだ見えもしない未来のなかにいる自分を想像して、そこでなにかしらの成功を掴んで居られるように着々と歩むストーリーを描いて見せろ、ということの馬鹿馬鹿しさ。自分に対する良い設計書を作成しその通りに建設していけば良い未来が約束されると信じて疑わない馬鹿馬鹿しさ。
人の生が、未来が、過去からの集積を礎に築かれ続けてゆくことは確かだし、無計画な生活を送れば人並みな生計を立てることさえ難しいことも自明だが、それでも、人を一個の構築物と見立てて「お前自身の設計書を描いて見せてみろ」と迫られるこの状況を、私は異常だと思う。

イヤだ、という感は確かに強い。
けれどもそれ以上に、それは「錯誤」だ、という感が強い。


過去の思惑のいっさいが、未来の文脈においてまったく異なるパラダイムで再解釈されるということ、その営みがあらゆるタイミングで時間幅で時間軸で繰り返され続けるということ、が、人と、人そのものを対象とする「人文」という領域での絶対の法則で。
たかが一個人の私が、その圧倒的な潮流に抗うこともやってみようと目論むなら、自分をたかが一個の構築物と見立てて凡庸の過去の連続の一点から設計書を起こして未来を支配しようなどと考えても仕方がない。その考えは、そもそも根本的に誤っていると、私は感じる。目論んだ通りに構築物が完成する可能性はほとんどないし、完成したとしてもけして満足はできない。
ああ、言い直そう。素晴らしい設計で、すばらしい自分を完成させ、それに満足する人も居るだろうし、もしかしたら、そのようにできる人が大多数かもしれない、が、私はそうではない。


今日の何かが、私のなかで、私の過去のいっさいの記憶と思考と行為と書き残してきた文章と誰かとのやりとりとに付されていた意味を、別の意味へと蘇生させる、そのような日が来ることを恐れないということ、むしろ歓待するということ、あわよくばと待ちかまえるということ。
私にとって、私自身と過去のいっさいと今現在の混成したものが海原のようなもので、そこに毎日船を出して、網を投げて、今日を生きていく糧が網に掛かってくれるように待つ。毎日獲物が取れるとは限らないけれど、私が飢えきって死ぬまで長々と待たされることはない、心配しなくても、それくらいには、この海は豊かだ。

それでいいじゃん。
ていうか、他人はともかく、私はそれでいいんじゃ。