Rage-指さす先

ふだん文章を読むとき、私はできるだけ、書き手が「伝えたい」と意図しているであろうことをそのまま受け取るように努めています。
深読みすることはあっても裏読みはしないように。書き手の思考や人がらに想いを馳せることはあっても書かれても無いことを邪推し相手の人間性を決め付けたりしないように。

無意識的に自重している部分もあるし、意識的に自戒している部分もある。

「読み手は書き手の意図を忠実に読み取るべきだ」と思っているわけでは、ないのです。ひとたび発信された言葉は、書き手の元を離れひとりで歩いてゆく。誰にどう受け取られるか、解釈されるか、わからない。読み手には好きに読み、解釈する自由がある。
私の記事が(物語も)思いもしなかった読まれ方をする、それは興味深く楽しいことです。

しかしあまりにも曲解されたり、悪意をもって解釈されることだけは、勘弁して欲しいなぁというのが正直な想いです。自分の分身が誤解(誤読)されまくるのは、さすがに寂しい。
自分がそういう人間だから、私は「誠実な読み手であり続けたい」と願います。

* * *

が、常に誠実であり続けることは、まっこと難しいです。

ネット上で見かける、言葉による暴力の数々。
直接的であれ、婉曲的であれ、感情的であれ、論理的であれ、他者を傷つけようとするその本性は同じだ。
いつもなら「しょーもない人がいるなあ」という感想に留めてその場を離れる、それが私の流儀でした。しかし【怒り】解放寸前まで行った余波で、二十日間ほど怒りの沸点が異常に下がっていた私は、場を離れずに深追いしたのです。初めて。

【怒り】に支配されたとき、私は読み手としての誠実さを捨てる。
裏読みでも決め付けでもなんでもやる。徹底的に表現と発信のタイミングを観察分析し、書き手の心理・価値観・精神状態を探り、それらがどのように結びつき動いているかを掘り下げ、書き手の精神世界を暴(あば)こうとする。というか、暴き回りました。

 相手の存在を拒絶する者は、
 卑猥な言葉を投げつける者は、
 他人の欠点をあげつらう者は、
 社会的弱者を軽んじる者は、
 知識に乏しく理論に弱い人を嘲う者は、

 あなたは、その言葉が相手を傷つけると確信しているからこそ使うのだろう、
 あなたが傷つくのだろう、あなた自身がその価値観に縛られているのだろう、
 あなたは欲しているのだろう、その言葉と逆のものを渇望しているのだろう、

 あなたは、
 「価値のある存在だよ」と承認されたくてたまらない、飢えた人間ではないのか、
 ありのままの自分をさらけだし解放したくてたまらない、抑圧された人間ではないのか、
 自分の器(うつわ)以上に善良に見られたくてたまらない、偽りだらけの人間ではないのか、
 他人の劣位をもって自分の優位を確認したくてたまらない、空虚な人間ではないのか、
 己の学と知性とで人を従えたくてたまらない、才に溺れた人間ではないのか、

 あなたの精神はそういう世界だ、
 あなたは、

* * *

私はそうやって、ひとり馬鹿の極みになって、ネットの向こうの「人間たち」に悪態をつき怒っていたのです。相手を憎みこそしなかったが(そこだけは制御できた)、怒りは抑えられなかった。

半分狂っていたのかもしれない。
他人の心の全てが、ほんの数語・数センテンスでわかるはずがない。
わかると思い込んで疑わない、それは自己と他者の境界が曖昧になっているということ、精神障害の域に踏み込んでいるということ。上に書いた「あなたの精神はそういう世界だ」という決め付けは、ほとんど妄想の領域です。「空想」を自嘲的に言い換えた「妄想」ではなく、精神医学用語としての「妄想」。

選択された言葉には話し手の心理が映る、激烈な表現には表現者の精神に巣食う問題が透けて見える。これは確かでしょう(※注1)。心理・精神医学の専門家でなくとも、対人経験を積んだ人ならば体感的に知っている。
しかしやはり、わずかな情報で相手の全てがわかった思うは傲慢だ。そんな妄想は滑稽だ。

またわかったとしても、たとえどのような人間性であろうとも、人の精神世界が他者から暴かれ、嘲られ、断罪されるいわれはない。それは個人の尊厳に対する冒涜だ。

私はそう考える人間です。そのはずだったのです。【怒り】に支配されるまでは。

* * *

冷静になった今、もう一度、自分を振り返ります。

心理学・精神分析学・社会学といった分野に、私は深い興味を寄せています。人の心と精神はどのように観察分析され、体系立てられ、解明されようとしているのか。
学者が言ったことだからといって真実とはかぎらない。しかし自分の内を見て「確かにある」と確認できた精神の体系や心理要素は、多数の人の内にあるに違いない、その可能性は極めて高い。私はそこから考察を始めます。(※全ての人の内にあるとは限らない、という留保は必ず付けます)
そうやって一歩づつ、人の心と精神、「これってなに?」という問いに自分で解答したい。

私が学び考えるのは、自分のためです。

学ぶことで、考えることで、「人」への深い理解と洞察を体得することで、人の悪意を恐れずに生きてゆけるのではないか、自分自身の激情に流されずに生きてゆけるのではないか、そう思うから。
飢えるこころ、荒ぶるこころ、冷酷なこころ、残忍なこころ、恐れるこころ、歪んだこころ、怠惰なこころ、驕(おご)るこころ、それらは全て私のなかにあると知り、だからこそ他者のなかにもあって自然なのだと理解し、そのうえで、自分も他者も怖れず【私】を開示してゆく力が欲しいから。

けして「あなたはこういう人間だ」と他人を決め付けるために、学んでいるわけじゃない。

* * *

私は【私の怒り】を捨てない。

だからまた同じことがあるかもしれない。【怒り】が私の右手に宿り、指を誰かに突きつけ、指さす先にある精神世界を暴き裁こうとする瞬間が来るかもしれない。
そのとき私は、残った左手で右手首を掴み、私の胸へと導く。私自身を指さし「お前はどういう人間か」と問う。なにがなんでもそうする。負けてたまるか。

負けてたまるか。
これが私の闘いです。




(※注1)
レトリックとして激烈な表現を採り、文言以上の意義を文章に込めようとする表現者がいます。こういった「自覚的な表現者」が書く言葉・文章は、意図的に表現者の心理・精神世界から切り離されていると私は考えます。そういった高度な表現にぶつかったとき、私は「書き手の内面」を深読みしません。「表現された内容」にのみ注目します。書き手がそう望んでいると感じるからです。

※追記 2006/5/25 コメント欄・トラックバック機能を開放しました