語ればいいのだ

昨日からの続きで、またお茶の話をします。
ほんとはこっちが本題です(※昨日は手を抜いたわけではない。念のため)



お茶を習っていた時期、「金繕い(きんつくろい)」という技巧を施した茶碗を知った。漆工芸作家の友人が、修繕依頼されたものを見せてくれた。
どういうものかはこちらをご覧ください。(※参照先のブログは別の作家のかたです。Google検索で見つけました)
それは素朴な色合いの寂びた茶碗で、金色の筋がほとんど真ん中を一直線に走っていた。真っ二つに割れたものを接いだ、ということだ。相応の技術が要ると友人は言っていた。

驚いた。道具をたいせつにする精神を知ったつもりでいたが、ここまでする人がいるのか。それに応える技術を持つ職人がいるのか。「こういう茶碗を梅雨の時期に使うと、また味わい深いんです」と友人は語ってくれた。彼も茶道をたしなんでいて、とても勉強家だった。(彼の爪の垢を煎じて飲んでいれば、私ももうちっとマシな弟子になっただろうか)

あれいらい私は、自らたしなむ人が語る薀蓄(うんちく)が好きだ。こう考えるから。

造詣の深い人というのは、核心とともに周辺をも大事になさるのではないか。お茶でいえば、作法・道具・美術・空間(建築)をも細やかに見つめ、古式の良さを学び、新しい意匠を創発し、ときにはまるで別の文化を取り込めないかと試みたりするのではないか。そうやって核心と周辺とを行ったり来たりしながら、「一杯のお茶の喜び」という単純素朴な精神を次の世代へ語り伝えようとするのではないか。
彼らが語ることならどんな話でもおもしろいだろう。彼らは核心を掴んでいる、よく知り、学び続け、さらに相手にその良さを伝えたいと、適切な言葉で深く語ることができる。そういう語りがつまらないはずがない。

文化を耕す人。私はそういう人を尊敬する。

* * *

ひるがえって私は、なにひとつ造詣の深い分野を持っていない。語るべきものが無い。
けれど【表現する喜び】だけは知っている。素朴で深い喜びを、一本の記事をたてるごとに感じる。

だから私は語りたい。「表現すること」がどんなものか、私が感じたことを語りたい。
私はまた、周辺のことも大事にしたい。知りたい。学びたい。考えたい。そして語りたい。
表現を伝え受け取ること「コミュニケーション」
表現とコミュニケーションの新しき器「ブログ」
たくさんの人々の精神が会するこの空間「Webという世界」

誰もが【表現する喜び】を持ち、表現すれば【どこかにいる誰か】に届くという時代が来た。
この世界はまだまだ豊かになる。表現したい人はいつの時代もいる、これからも生まれ続ける。だから変化は速くとも、この世界はそう簡単には廃れない。今、何かを残す人は、永い時代の先駆けの人と呼ばれるだろう。名前や言葉は残らなくても、その精神が受け継がれてゆくだろう。私はそう感じる。

ここ数週間、「コミュニケーション論(議論論)」「ブログ論」「ネット論」、そういったメタ論は無意味ではないか、空疎ではないかといった主張をあちこちで読んだ。そうだろうか。私はそうは思わない。【表現する喜び】という核心を忘れないかぎり、私のメタ論は空疎にはならない。

だから語ろう。だからこそ語ろう。好きならば語ったらいいのだ。
胸を張って語れ、本質はどこかと語れ、周辺を語れ、ときには俯瞰して語れ、文化を耕すくらいのココロザシで語ったれ。大言壮語で上等じゃねえか、なんの遠慮がいるものか。

私は耕す人になるよ。そうしたいんだ。
人の畑にまで口を出そうとは思わない。自分の小さい畑にじっくりと手を掛ける。その出来不出来は、この場所に成った実を見て、あなたが判定してください。うししし。




文中、【表現する喜び】【どこかにいる誰か】という私の想いに強く響いた記事に、リンクさせていただきました。互いの記事の主テーマが異なるため、トラックバックは送っておりません。改めてご紹介します。