名前って・・・難しい

わたりとりの書庫へようこそ。

長編連載の息抜きに、栞でほっとひと息 第三弾です。

今回は、「名前を付けること」について。




私は、ある地方企業に勤めていますが、これがまた、せわしない会社でして。
短期中期プロジェクトが、雨後のタケノコのようにポンポン生えます。
CS(顧客満足)向上、企業イメージ考察、販売推進策、いろいろです。
(書くとスゴそうですが、実態はそうでもないです、念のため)

私はこういう活動の企画を担当しているので、
「ついでにプロジェクト名も考えてよ」とよく言われます。
が、丁重にお断りしています。

ネーミングセンス、ゼロなので ^^;

私に任せると、「CS向上プロジェクト」「販売推進プロジェクト」なーんて、
そのまんまやんけ!アホ!と どつかれそうな名称を付けちゃいます。
覚えやすく親しみやすく、それでいて活動内容をよく表している、
そんなステキな名称が、浮かびません。無理です。

最近、上司は私に期待しなくなり、名称は社内公募制になりました。
そうして集まってきたのを見ると、素晴らしい名称ばかり!
やはり、仕事は適材適所。やれる人がやったほうが、みんなHappy。公募制バンザイ!

プロジェクトにとって、名称は大事です。
ぴったりした名称がつくと、活動に弾みがつき、社内で定着します。
最大の利点は、メンバーに「プロジェクトをコントロールしている」という自信が生まれることです。
一種の錯覚なのですが、良い錯覚といえるでしょう。


さて、ここまでは余談。で、本題ですが・・・


モノゴトにとって、名前は実態と同じくらい重要です。
いや実態以上に、重要な場合も、あります。

アイアコッカの自叙伝で、新車を開発するさい一番モメる会議は、車名を決める会議だ、と読んだことがあります(馬鹿売れしたマスタングの逸話)。
想像つきますね。
車名でコケたら、どんなに素晴らしい新車であっても、売れないでしょう。
消費者は、車の性能よりむしろ、名前に代表される「イメージ」を買うわけですから。

名が付くことで、存在が確認されるコトガラもあります。
たとえば、最近取りざたされる「ニート」、もうちょっと古くなると「引きこもり」。
これらは、現代社会に突然発生した現象でしょうか?
以前からあったが、社会的に認知されていなかっただけではないでしょうか。
同様の理由で、新しい病名・障碍なども、名が付くと一気に注目されますが、その病やハンデに苦しんでいた人間は、ずっと昔からいただろうと思います。

名付ける、ということは、
私達の意識の中で、モノゴトの存在を許す、承認する、ということかもしれません。
積極的な承認(プロジェクト名やブランド名など)、消極的な承認(望ましくない社会現象など)と、パターンは別れますが、名付け行動の原理は同じです。

私の母が、原因不明の神経痛に苦しめられたとき、病院を転々として、言いました。
治療方法を知りたい、などという以前に、この病名を知りたいのだ、と。
病名が付かなければ、「一時リタイアしてもいい」という社会の許可すら、降りない。
まさしく、病名の付かない病は、存在していないわけですね。
医者に「同じ症状の患者がいる」と告げられた時の、母の安堵の表情が、忘れられません。
彼女は、自分の痛みを承認してほしかったのです。医者から、家族から、社会から。

名前は私達に、モノゴトや現象をコントロールする力を与えてくれます。
一方で、私達の見方や感じ方を固定化してしまう、という副作用もありますが・・・
長くなるので、この話は、また今度にしましょう。
(ほんとに長いったら・・・栞のほうが、長いじゃねえか ^^;)


ただ私は、
数多くの「名前」を失ってしまったカピタル人を描くのは、タイヘンだあ~ふぅ~(T・T)
と言いたかっただけです。失礼しました。

設定を忠実に守るならば、
「枝」「根」「草原」「林」なんて名詞も、彼らは知らないはずなんですがね・・・
私の能力では、知っていることにしないと、書ききれません。
そのへんは、さらっと読み流してください。さらっとね。




さて、次章は 新月祭 です。
いろいろなことが、賑やかに、どぁーっと起こります。
分量も、いつもの二章分くらい、あります。

どうぞお楽しみに^^