37.ラタの谷#9

 じっと固まっているウィルに、ラタは小さく首をかしげて言った。
「ウィルはどうしてそこにいるの? わたしの話を聞いてくれるの? それで優しい人間になってるつもり?」
 うーんと唸り、ウィルは頭を掻きむしった。ラタの話は難しすぎて、やっぱり置いていかれていた。彼女は自分自身に嫌気がさしていて、自分の優しさはニセモノだと思っているところまではわかった。でもその理由がいまひとつわからない。ラタがそこにこだわる理由もわからない。
「俺はただ、俺がそうしたいから、ここにいて話を聞いてるだけなんだけどさ……それじゃ駄目なのか、ラタには」
「駄目じゃないけど、じゃあ、そうしたくなくなったら、もうしないってこと? 気分しだいってこと? 相手がいるのに?」
「したくないことは、しない。あ、でも、したくなくても、したほうがいいとか、しなきゃならないことはする。そういうこと、よくあるじゃんか」
「あなたがわたしに優しくしなきゃならない理由なんて無いわよ。そんなつもりなら、出て行って。うっとおしいから」
 さすがにムッときた。ああ言えばこう言われ、こう言えばああ言われ。それはないだろうと思った。こっちだって、気に入らないことは気に入らないと言ってやる。
「俺がどういうつもりかなんて、そんなことにお前がこだわるなら、俺は帰る。俺、そんな難しいことはわからないからな。話を聞いてやりたいと思う間はいるし、話がイヤになってもお前を放っておけないと思う間はいるし、お前のことがイヤになっても俺はここにいるべきだと思う間はいるぞ。そのうちのどれかって聞かれれば、今は、俺がいたいからいるんだ。今はな。そのうち変わるかもしれないけどな。気持ちが変わったら手を挙げて教えろってことか? いちいち俺の気持ちがどうだって確認しながら話をするのか? 俺がやってることは変わらないのに? 面倒くさすぎるぞ、そういうの」
 途中から、ラタはきょとんとした顔になった。へぇ、と小さく漏らす。
「驚いた。ウィルが面倒くさい理由をちゃんと言えるなんて。あなた、いつもなら、面倒くさいって顔してどっかに行っちゃって終わりじゃない」
「からかうなら帰るぞ」
「帰っちゃいや」
 ウィルは吹き出しそうになった。一瞬、レイリーが答えたのかと思った。
「じゃあいるけど……俺、思ったんだけどさ、優しい人間になりたいって考えて一生懸命そうするのって、悪いことか? そうできる人間を優しい人間て言うんじゃないのか? 俺はそう思う」
「悪いことじゃないけど、でも、わたしは何かおかしいと思ったの。たとえばね、わたしが誰かのことを好きでたまらなくなって、その人と結婚するのは、自然だし幸せなことよね? でも、誰かと結婚したいって自分で決め付けてから、好きな人を一生懸命探すのって、おかしくないかしら」
「うん。ん? そうか?」
 確かにおかしいかも、と思いかけて、別にいいんじゃないかと思い直した。他人から決め付けられたならともかく、自分で決め付けるくらい、いいじゃないか。大事なことは『結婚したいくらい好きな奴と出会えるかどうか』のほうだ。自分は絶対結婚したいぞと決め付けて、がむしゃらに相手を探して走り続ける人間がいてもいいと思う。変り種のパルヴィスみたいでおもしろい。本当に出会えるかもしれないし。
 ラタにそう答えると、「あなたって……」と言ったきり絶句した。