37.ラタの谷#8

「わたし、怖かった。キディがいるかぎり姉さんは地下室でどんどんおかしくなっていく。それでママに相談したの。そしたら、ガランに頼んで、キディの預け先を探してくれることになって。でも、返事を待ってる間にあの感染騒ぎが起こって……わたしが頼んだことは忘れられてしまって……」
「そうか」
 仕方ないだろ、緊急事態だったんだから――とは言わなかった。今ここで、そんなこと言う奴がいたら、馬鹿だ。
「エヴィーの小屋であなたとはち合わせた日のこと、覚えてる? ハルがどこかに連れて行かれた日。あのときも、本当は、辞書にかこつけてハルに相談するつもりだったの。ううん、ただ気持ちを聞いて欲しかっただけなんだけど、でもハルはいなくなってしまって、あなたもどこかへ行っちゃって。そのあとセルゲイさんが来たけど、なんでもない、心配いらないからお前は帰れの一点張りで……その後、抗体が見つかったとかルロウと和解したとか森に移る準備をしろとか、いろんなニュースがいっぺんに飛び込んできて、わたし、なんだかもうどうでもよくなっちゃった。勝手にしろって思った。わたしが言うことは空気みたいに無視されて、そのくせ周りはどんどん変わって行く。馬鹿みたい、わたし」
「えーと……」
 口を挟みたくなった。慎重に言葉を選ぶ。
「……その、あの日はごめんな。いろいろあったんだけど、ラタには関係ないことだよな。言い訳はしない。ごめん」
「いいのよ。わたしとは関係ないところで、いろんなことが起こってるのよね。仕方ないわ」
 いつものラタなら「仕方ないわよね」と拗ねた調子で言いそうだった。だが今日は違った。ウィルは感じた。ラタは本当に仕方ないと思っている。なにかを完全にあきらめ突き放した、そんな響きが「仕方ない」という言葉に滲んでいる。
「そのかわり、わたしも誰とも関係ない人間になることにしたの。誰かが泣いてても、誰かが困ってても、誰かと誰かが憎みあってても、そんなこと気にしない人間になるの。だって気にしてもしょうがない。何も変わりはしない。私がなにを思っても、考えても、それを誰かに言ったとしても、どこにも届かない。だからもう、なにもかも、関係ないわ」
「ちょっと待て、そんな……どんどんひとりで決めるなよ。ママだって約束を忘れることくらいあるだろ。そうだ、結局キディのことはママが動いてくれたんだろ? レオン・セルゲイからそう聞いてる」
「わたしには遅すぎたわ。ママが約束を果たしに来てくれる頃には、キディが疎ましくてしょうがなかった。顔には出さないようにしてたけど、苦しかった」
「疎ましかったって? キディが? なんで――キディは関係ないだろ!」
 怒鳴りつけてから、しまったと思った。ラタの気持ちの糸がぷつんと切れて、怒鳴り返されるだろうと思った。――けれどラタの落ち着きは変わらなかった。それどころか陰気に笑って言ったのだ。
「そうよ、関係ない。わたしがあの子に優しくしなきゃならない関係なんて、わたしたちの間にこれっぽっちも無いのに、どうしてこんなに気に掛けてたのかしらって馬鹿馬鹿しくなったわ。わたし、わかったの。わたしは優しい人間じゃないわ。優しい人間になりたかっただけ。だから優しい人間らしいことはなんだろうって一生懸命考えて、一生懸命それらしいことをしてただけ。全部ニセモノだった。キディを引き取ったときに、こんなことができる人間は他にいないって思ったの、わたしだけがキディを許してあげられるって思った、ねえ、ひどい思い上がりでしょう? ルロウの人達が助かって喜んでるみんなを見てたら腹が立ってきた、あなた達なんかお互い罵り合って生きてくのがお似合いだって、ねえ、本当に汚い人間は誰かしら? 汚いでしょう、醜いでしょう――でもそれが、本当のわたしだわ」