微笑むか、吼えるか、選べ。

今回は変態な文体でお送りします。



私は少々議論らしいことができるので、ひょっとして批判されても蛙のツラなヤツと思われてるかもしれませんが、これでも繊細で傷つきやすいのです。無礼千万なコメントやら情緒皆無なトラックバック記事やら悪逆非道なはてブコメントなどよこされた日には、発作的になにをするか、自分でもわかりません。

そら「どんな批判にも毅然と対応します」とドーンと言えたらカッコええけど。想定外ってありますやろ。ふだんできることもようできんくらい滅多なことを想定外ちゅうんやし。そういうとこに落ちたら、みっとものうてもなんでも人間あわあわもがくしかないやん。しかたないやん。落ちた当人は必死ですえ。あんさんとうちが初対面やったらようこころくばりしておくれやす。できひんのはあんさんの咎でうちの落ち度やありまへん。

批判され傷つき通常の判断行動ができなくなった私の姿を醜態と呼びたいなら呼ぶがいい。追い詰められ醜態を晒す人間を嘲笑弾劾する君らの姿はさらに醜い。「批判されたくないならブログなどするな」だの「都合が悪くなったら記事を非公開にして逃げる卑怯な奴」だの「コメントを削除するなど幼稚で恥ずかしい行為だ」だのと、よくそんな反論のしようもない正論を賢人面で平然と公然と言えるものだな。君らには面映いという感覚がないのか。そういう話はせめてコソコソとパスワード付きの非公開スペースにでも行って仲間内で盛り上るくらい場をわきまえろ。完全勝利間近に肩透かしをくってつのった欲求不満を正論吐きと嘲笑とで代償しようとするその歪んだ精神。私の醜さなど比にならぬ醜さだ。見苦しい。
君らのような人間にかぎって「あたしのアドバイスを聞かないと地獄に落ちるよ」とのたまう細木数子風説教流儀をキモイウザイとこきおろすのだろう。君らの流儀となにが違うのか。お節介なうえに押し付けがましく相手から要らぬと拒絶されると呪いを掛けるその厚顔無恥さが。

あぁウザいわ、ほんま。わしは自分に正直にいく。理性が吹っ飛んだら、コメント削除・トラックバック削除・逆キレ罵倒・記事削除でトンズラくらい、平気でやるわい。悪いか、どあほ。
わしの理性が吹っ飛ぶポイント、書いとこか。ええか。







なに、読めないとな?
ははあ、それは御主の心眼が開いておらぬということでござる。
「自分ならばこれこれ」では駄目でござる。拙者は御主ではない。
慰真字根意志予云でござるよ。想像力でござるよ。我が文を読み想い測り慮らば容易きことでござるよ。

この地雷を踏む迂闊者が現れたとき、私がどう化けるか、我ながら見物ですな。ふっふっふ。

* * *

某所にて、「自分の記事へのネガティブな反応(辛辣な指摘・批判・罵倒・嘲笑など)にどう対応するか」というテーマの記事群を読んだ。半年ほど前だ。私のスタンスとは異なる、というより、ある軸において私の信念と対極に位置する記事がいくつかあり、強く印象に残った。

それいらい、政治力も知名度もない【個人の表現物】をことさら批判する行為を、私自身はどう考えるのか、ずっと自問自答している。
すべての批判行為を無意味だと退ける気はない。私自身、批判する側に立つことがある。その有用性を信じているからこそ、【個人の表現物】だと認識したうえで敢えて批判している。ただし、私は自分の批判が退けられたとき、けして相手の拒絶の態度を追批判しない。その点で、前出の記事は私の対極に位置していた。この記事では便宜上、「彼ら」と呼ばせていただく。

この記事は特定の記事への反論ではない。よってトラックバックもしない。これは彼らの記事の背景に流れる「間違いを犯した者・侵した者・冒した者は、どのように批判・追批判・集団批判・無限批判されようとも自業自得である」という峻酷な思想への反論だ。
彼ら自身、この思想を強く支持しているわけではないことを、私は知っている。実際、彼らは批判行為に加担せず傍観していることも多い。行き過ぎた集団批判行為などには嫌味を述べることもある。だが彼らは高みから言う、ネットで発言すれば批判されることは避けられない(確かに避けられない)、批判者には批判する自由がある(確かにある)、批判されるのは当人にそれなりの問題があるからだ(確かにあることがほとんどだ)。彼らは他人を批判して溜飲を下げるような人種ではけしてないのだが、この三つの論理を論理で覆す方法を知らないから、戦わずして長いものに巻かれている。彼らの舌は語りやすい話題を舐めまわすばかりで、なにも斬りはしない。

私は三つの論理を論理で覆す。簡単なことだ。
批判は正当・適切・妥当であってこそ有用なのであり、不当な批判は現実でもネット上でも許されることではない。批判の有用性は、批判者側が「自分の主張の内容と形態」を自己分析して個別に立証することであって、批判対象の非道ぶりや愚かさを盾にして言いつくろうものではない。Web環境や他の批判者の存在を指差して言いわけするものでもない。批判対象をよく観察し、状況をよくかんがみ、どうしても相手に届ける必要があると判断した内容を適切な文章と方法とで発信した、と【自分で】立証すべきことなのだ。
批判に冷静に対応できない、議論に未熟な、議論を望んですらいないブロガーを批判・追批判・集団批判するならば、その行為の正当性は厳しく問われるべきだ。誰によって? もちろん自分自身によってだ。他人は批判できるが自分には問えない者、自分自身にコミットできない者は、峻酷な思想の鎖に繋がれたまま生きてゆけばいい。それもひとつの自由だ。

昨年12月のブログ文化論争いらい、私はたくさんの言及(批判)リンク系ブログを見てきた。しかし彼らのコンテンツの背骨ともいうべきこの問題を真正面から取り上げ、論理的にかつ人の心の機微を汲み上げて深く議論した記事群を、私はついに見なかった(見ている範囲が狭すぎるのかもしれないが、仕方がない)。呼び水となりそうな記事はいくつかあったが、それに対する反応はお決まりの言いつくろい・言いわけパターンに終わるばかりで、言及リンクの輪は発展しなかった。彼らに、このテーマを深く議論する意思と能力と信頼関係は無いのだと、私は知った。

批判行為そのものを自己批判できない批判者達でかたちづくるブログ文化。広がりはある。しかし深さが無い。この栞で、終わりにする。彼らの文化を知るためのブログ巡りは、もうやめる。今後は自分が本当に読みたいものだけを読みに行く。

私はここに一里塚を置く。この記事で傷つく友人がいるかもしれないが、それでも自分のために書いた。
半年以上このテーマを抱き、繰り返し考え、表現できるカタチに至るまで手放さなかった、それだけが私の誠意だ。ただの自己満足だが、あなたに他にさしあげられる言葉はない。ごめんなさい。

この記事につなぎたい記事があるかたは、どのような内容であれトラックバックしていただいてかまわない。過去記事でもかまわない。言及リンクの有無など問わない。関連性の高さも要求しない。どこがどう関連しているかは、私がこちらから読みに行く(そのうえで関連性なしと判断したものは削除する)。


獅子吼不尽。虚空に吼えるのもまた楽しからずや。



※タイトルの意味を知りたいかたはコメント欄で吼えてください。そのほかなんでも吼えてください。