新たなる表現者のために。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに準拠し、以下の要件で「Capital Forest」全文章を開放します。


(1)どなたでも、「Capital Forest」の全文または一部を複製し配布・公開することができます。印刷物として、Web上のコンテンツとして、どちらでもかまいません。

(2)どなたでも、「Capital Forest」の文章を利用し自由に文章を書くことができます。文章を要約したり、翻訳したり、表記を訂正したり(漢字をひらがなにひらくなど)してもかまわない、ということです。抜粋文を利用し、新たな文章を書くことも自由です。著作権法で定められている引用の要件(※後述を参照)を満たす必要はありません。舞台設定や登場人物を流用し、二次創作していただいてもかまいません。

(1)(2)を行うさい、次の要件にご配慮ください。
◆作品名「Capital Forest」・作者名「わたりとり」を紹介してください。
 ※二次創作の場合は、原作名・原作者名となります。
 ※数フレーズ程度の一時利用であれば、紹介を省略してもかまいません。
◆商用目的で利用しないでください。

以上の要件を守っていただけるならば、私(わたりとり)への連絡は不要です。
問い合わせ等のあるかたは、トップページからメールフォームをご利用ください。

ご注意ください
ここで許可している範囲は「文章(テキスト)」のみです。なお、連載当時のブログ記事は誤記・表記揺れが多いので、利用しないでください(記事は発信日時の記録のために公開しています)。
HTML版ダウンロードファイルそのものを転用(改変・配布・公開など)しないでください。お借りしているテンプレートファイルの再配布行為にあたるからです。テキスト版ダウンロードファイルの転用は、ご自由にどうぞ。

著作者としての権利行使
以上は、条件付きで私が有する著作権の一部を放棄する、という宣言文です。しかし「条件さえクリアされていれば、いかなる利用方法に対しても、著作者としていっさいの異議を唱えない」ということではありません。私にとって精神的苦痛が大きく、さらに社会通念上も妥当と思えない利用方法に対しては、善処を求めることがあります。

謝辞
クリエイティブ・コモンズのバナー表示に、以下の記事で紹介されているソースを利用しています。webmugi氏に御礼申し上げます。
Mugi2.0.1-Yahoo!Blogs転載機能とクリエイティブ・コモンズ





【引用】について、私の考えるところを述べておきます。

著作権法において、引用は以下のように規定されています。
著作権法 第三十二条 (引用)
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

「公正な慣行に合致する」「引用の目的上正当な範囲内で行われる」の解釈は一義的ではありませんが、一般的には以下のようなものであると考えられます。
(a)引用元を明記すること
(b)原文のとおり転記する(改変しない)こと
(c)どの部分が引用かわかりやすく示すこと
(d)文章の構成として、新しい文章が主・引用文が従の関係にあること
(e)引用する必然性があり、かつ主文の内容に公共性・学術性があること
(f)主文の論理展開に照らし、過不足のない適切な引用量であること

これらは、著作物が著作者の意に反して捻じ曲げられたり、引用の名の下に無断複製されたり、批評の名を騙った誹謗中傷によって不当に傷つけられたりすることのないよう、「著作物」と「著作者(創作者)の精神」を守るうえでたいせつな要件です(※とくに著作物を批評・批判するさいには、慎重に配慮されるべき要件であると考えます)。

しかし、文章を書くために特別な訓練をしているわけでもなく、書く行為に対価を求めているわけでもない、ただ自分の想いを素直に綴り発信したい市井の表現者(その代表がブロガーですが)にとっては、厳しすぎる要件です。

また「ある文章に深く共感したこと」を表現しようとするとき、満たすことが難しい要件でもあります。
深く共感・共鳴した文章は、自分の主観(批評)をことさら加えずに紹介したい、読み手に原文をそのまま味わってほしいと願うものではないでしょうか。それは作品と作者に敬意を表する行為であって、けして怠慢でもパクリでもないはずです。
「ここは引用ですよ!」と原文を枠線等で囲み示すことを、無粋だと感じる書き手もいるでしょう。自分のこころの糧となった文章は、すでに自分の精神の一部であり、主文からよそよそしく切り離すことに違和感を感じるからです。少なくとも私は、そういった詩歌や文章を持っています。

著作権」と「表現の自由」、ふたつの権利調整を考察するうえで、この点がずっと気になっていました。
他人の創作物の価値にタダ乗りした不遜な文章と、創作者の思想に親愛・敬愛の念を寄せる素朴な文章、ふたつの表現のカタチはよく似ている。文章の見た目だけで判別することはできません。悩ましい問題です。
だが、前者を警戒するあまり後者まで敵視していいのだろうか。そういった閉じたこころでモノを創ってなんになるだろうか。そういった息苦しい世界は若い思想の芽を枯らすばかりではないのか。私はそう思うのです。

私は、人の悪意を怖れるより善意に期待し、まあ大丈夫さと楽観したいと思います。ということで、「Capital Forest」については(a)の要件だけ満たしてくださればOKです。気に入っていただけたなら、自由にご利用ください。