キョクアジサシ

1day,1page 読者のみなさまへ。

創作小説「Capital Forest」完結までお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
また、お祝いの言葉、ねぎらいの言葉、おもしろかったというお褒めの言葉をくださったみなさま、本当にありがとうございます。ありがとうという言葉しか無いことがもどかしいが、他に言いようがありません。ありがとうございます。

この場所で、一年半、ひとつの物語を書き続け、最後の一話を更新し終えたとき、私は、ああやっと終わったと、ここを凍結して消えようと思っていました。書きたいことを書き終わったのだから。

私は物語の他に、書きたい話題も主張もとくに持ちあわせていません。
栞の記事群・Yahoo!Blogs転載機能糾弾記事群は、「どうしても表現したいモノ(物語)がある」という私の欲求から派生したものです。私が表現するために、そして私と同じように「表現したい」と願うかたがたのこころが踏みにじられないように、ささやかな祈りを、ときには怒りを込めて、私はそれらの記事を書きました。だが、物語が終わったいま、私の内には綴りたい文章がなにも無いのです。

みなさまからいただいた暖かい言葉に、人懐かしさを呼び起こされ、「これからもヨロシク」「(ここから)消えませんよ」とお返事してはいましたが、この気持ちに変わりはありませんでした。みなさまとの親交は続けたいが、困ったなと思っていました。

雑記記事をぼちぼち上げながら、なにかアイデアが浮かんだら短編に仕立てて更新しようかな。更新の間は開くけれど、そうすればここに居続けられるかな。と思いかけ、すぐに、私は遠からず虚しくなるだろうと直感しました。そういった行為に、仕事と家庭と自分自身に振り向けるべき時間を削るほどの価値を見出せない。
どうも私は、書くことじたいを愛してはいないようです。たんに、自分の内のイメージを外に出し、創りたかった。その手段が【書く】という行為だった、ようです。

てなわけで。困ったなと思いながら、みなさまのコメントを読み、お返事していました。

そんなとき、プラムさんが「Capital Forest」の感想を記事にして、トラックバックしてくださいました。登場人物たちをひとりひとり抱きしめてくださっているような、そんな文章で。また、トンコさんはじめ幾人かのかたから、「Capital Forest」を読んで翻案・二次創作したい人はいるはずだという言葉をいただきました(あるかたから、私信でもいただきました)。

私は驚きました。そして本当に嬉しかった。
子ども時代、本に空想にどっぷり浸かっていた私には、よくわかります。架空の人物たちが私のなかで息づいている感覚、彼らが物語から離れて生き生きと動きだす不思議さ。翻案や二次創作は、そういった作用を通してしか産まれてきません。私には、よくわかります。
プラムさん、トンコさん達の言葉で、私の内に閉じ込められていた『者たち』が私の外に飛び出し、誰かの内で新たに生き始めていることを知りました。おおげさかもしれないけれど、私にとって、これは奇跡です。どんな賞をもらうより、はるかに嬉しい。とてもとても嬉しい。

* * *

決めたぞ。

私はもうひとつ、物語を持っている。
私の内で「Capital Forest」より先に生まれながら、あまりの質量に、外に出すことをためらっていた物語。三人の人物が、私のなかで飼い殺されている。私は彼らを外に解放しよう。

ただし。現在の私の状態では、発信できない。創るならいいモノを創りたい。勉強すべきことがいくつもある。ある程度書き溜めて、完結までの道筋を描いて。リアルの生活に支障が出ないよう、身の回りの準備を整えて。新しい物語は「Capital Forest」より長い。私の精神力をはるかに大きく削るだろう。

「Capital Forest」で表現された明るさ、希望の色を好ましく思ってくださったかたにとっては、受け入れがたいモノになります。その対極へ飛ぶ物語だからです。より私の本性に忠実な、暗く重く危うい物語です。相当の準備と自制心をもって臨まなければ、私も向こう側から喰われる。そういう物語です。

この準備にどれだけ掛かるか、今はちょっと予測が立たないが、年単位であることは間違いない。
待っていてくださいとは申しません。いつでも見切ってください。もういちど零から始まるなら、それもいい。それがいい。


「どうしても書きたい物語がある」
この衝動が新しい文章を産んだときのために、新しい書庫を設置します。
北極圏と南極圏の空を結び、渡り飛ぶ、キョクアジサシ(Sterna paradisaea)の名を冠し。


こんな日が来るとは思わなかった。
わたりとり、ねえ。我ながら、気味の悪い名を付けたもんだな。