法螺吹きの大嘘です。(信じちゃダメよ)

いつの頃から、私は【率直】であることをこうも尊ぶようになったのかな、と考えています。

嘘をついてはいけない。正直でありなさい。とは、誰もが言うが、それは他人を騙すなという意味でしょう。私の【率直】はそういった道徳的な意味合いとは違います。

私は嘘は滅多につかないが、隠し事はよくやりますよ。あれとかこれとかそれとか。感情の起伏に乏しい性質のくせに、ブログでは喜びをえらくオーバーに表現しておりますが、これも一種の嘘かもな(爆弾発言かや?)(でも、私は嬉しかったことや掛けていただいた言葉をずーーっと覚えている人間なので、先の分も前倒しで表現していると思って許してください)。
ひじょーにタチの悪い作法だが、相手しだいでどうとで受け取れる「鏡のような言葉の発し方」というのも、たまにやります。それなりの意図を持ってだけどね。正直者はそんな駆け引きはしないだろう。私は腹黒い人間です。まっくろけのけなの。

私の【率直】は、自分の感情を偽らない、ということです。自分自身に対して。そこだけは、まっしろです。そのうえでできるだけ誤魔化さずに言葉を選び、発話する。馬鹿と見られようと、嫌われようと、かまいません。たとえ相手を傷つけても、交渉と和解の勝算があるならば、敢えて一刀を浴びせて相手の懐に踏み込むこともする(だがけして二刀目は抜かないよ)。傲慢と感じるかたもおられるだろうが、それが私なりの対人術なのです。

そんな私の子ども時代は口から生まれたかというお喋りでした。さらにまっかっかの嘘つきでした。いや、法螺吹きというべきか。異常な空想脳のうえ子ども時代は内界と外界の境界がゆるゆるだったので、頭に浮かんだ空想をなんの警戒もなく外にだだ漏らしていたのです。蛇口開きっぱなしで水ジャージャー、というカンジですな。他人にとってはただの嘘、だが私自身にとっては究極に【率直】な、法螺話。
馬鹿まるだしの幼稚な法螺をいっぱい吹いていたようです。なぜか相手は常に外の人ばかりで、家の者は私の法螺を知りませんでした。法螺の中身は覚えていない。私はこの所業を心底恥じているらしい。よほど忘れたいらしく、ほんとに覚えてない。

水ジャージャーは小学校低学年くらいで収まり、私自身その悪癖をすっかり忘れて平穏に過ごしていたのですが。油断大敵。中学生になり、ある日、その法螺を蒸し返すヤツが現れたのです。みなの面前で「たしかこう言ってたよね」と問い詰めてきやがった。余計なことしやがる。ガキの嘘くらい忘れてくれよ馬鹿野郎。
……などと思えるのは今だからで、まだまだ純情だった私は、気が転倒してしまいました。他人に対して、自分に対して、もうどうしようもなく恥ずかしく。震えながら家に帰り、どうしていいかわからず、母に「私は嘘ツキだった」と言って泣いたことを覚えています。なんで母に言ったんだろう。誰かに告白することで、楽になりたかったのかもしれない。よくわかりません。

忘れたい嘘を人前で暴かれ、嘲われた衝撃がどれくらい大きかったのか。自分のこころに尋ねても、そのときの痛みを思い出せません。だが尋常でなかったことだけは、わかる。
私はその後、十年以上、自分はこう思うこう考えるということを、いっさい口に出さなくなりました。外交的な性格が一日で内向に転じました。担任の教師が、なぜそんなふうに真逆に変わってしまったのかと、以前の君のほうが僕は好きだと、仰った。それくらいの変わりようでした。ときどき思い出したように口を開いたときにかぎって、ろくでもないことを言いつまらない結果を招いたので、私の寡黙さはいっそうひどくなりました。

まあ、その後、いろいろありまして。十年以上の年月をかけて、口から先に生まれた現在の姿に戻ったんですけど。よく戻ったな。どうやって戻ったんだろう。戻れて良かったんかいな。どうでしょう。

ただ、もうどうしようもなく、私は自分の気持ちに嘘をつくのがイヤなのです。
自分の思っていること考えていることを正確に捉え、自覚的に言葉を選び、発話したあとの相手のこころの動きまで見据えて、【率直】に話す。こう書くと実にいやらしく作為的だが、そうすることしか私にはできない。なんとなくだけれど、言葉を失っていた長い時間が、そうさせているように思います。

感じたこと考えたことを、自分に正直に現すからこそ【自己表現】というのだ。と、私は馬鹿みたいに信じています。他人がそれをどう受け取るかは、【表現】にとってはどうでもよろし。
他人を斟酌した表現は【コミュニケーション】へと移りますが、私にとってそれは【表現】を確立させてからの課題です。自分自身を的確に表現できないあいだは、どうあがいても歪んだコミュニケーションしかできないと、感じるから。

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私は十代以前の記憶を、切れ切れの断片でしか持っていません。ほんとに忘れたいらしい。やれやれ。
しかし今は、あの頃の私をいとおしく思います。法螺吹きの子ども、震えていた子ども、口を閉ざしてしまった子ども。あんぽんたんで、不器用で、臆病な子どもでした。いじらしいでしょ。今の私のたいせつな礎です。
お前もお前もお前も、ほんとにも~可愛いやっちゃ! 大好きだ! ぎゅ~!