鏡、神々、戦わぬ道 #2

先に弁明しておく。私が自分の内界を、とくに、屈折した心象や他への悪意を書き晒しているときには理由がある。たんに誰かに当てつけるために、または露出の趣味から表明しているのではない。

私は、自分の告白を自分で受け取りあるがまま肯定したうえで、「さあ、そして【あなたは】どうしたいのか。どうありたいのか」と私自身に問い返すことができる。私は、私に対して牧師を務めるということ。問いに答えるために、私は自分の内側をたんねんに調べ整理する。作業の過程で、私の内心に刺さったまま毒を注ぎ続けていた棘が見つかる。見つかれば、棘を抜き、私を治療することができる。私は、私に対して医師を務めるということ。
これは誰にでもできることではないと推測する。たんに自分に正直であればできる、ポジティブ思考であればできる、というものではない。他からの理解や共感は望むほどには得られないという諦観、自分のちからで回復できるという自分への信頼、結果がどうなろうがこだわらないという放下、いずれも揃わなければできない。また、実践には一定の技術を要する。さらに、心身ともに充実していることが条件である。
以上、私は「私の資質」を自覚したうえでモノを書いていることをご理解いただきたい。

セルフカウンセリング・セルフヒーリングの経緯を「書く」ことはともかく、それを「公開する」必要があるのか。考えたが、公開して良いと判断した。必要性はどうだか知らないが、公開する「価値」はある。
ネガティブな心象をフラットに戻すための作業経過を書き留めることで、いくつかのおもしろいトピックが生まれそうに思う。それは他の様々な「ネガティブな事象」をフラットな状態に押し戻すための処方箋になりえるし、あるいは、ネガティブであった事象がポジティブに反転する誘因子にすらなるかもしれない。確信はないが、そう予感する。




Home away Home #21」の記事と、その記事につけた私のコメント(コメント者へのレス)を一気通巻で読めば、私の内にあった強烈な差別心を見ることができる。
※記事を書くための内省作業を通して、現在の私のなかには「強烈な差別心」がない。氷解した(はず。現段階では私の内に見当たらない)。よって「私の内にあった」と過去形で表記した。

「#21」記事のロジックの流れは、以下のとおり。
(a-1)人は自分が信仰する価値、「自分にとって都合の良い規範」から外れた他者を怖れる。
(a-2)怖れが、ネガティブな他者認識を生み出す。「あいつらはマトモでない、オカシイ、理解不能だ」
(a-3)ネガティブな他者認識を偏見・差別として表出させないよう努力する人々もいる。しかし「差別は許されない」という命題に同意していない人々もいる。
(a-4)自分は道徳的であると自認していながら「差別は許されない」命題に同意していない者にとって、差別心のあからさまな表出は自己の道徳律に反する。自己矛盾を起こす。
(a-5)かくて道徳的であると自認する人の差別心の表出は、ひどく歪む。自分の悪感情をどこまでも論理で正当化しようとする。
(a-6)差別の正当化は、私にとっては差別行為そのもの以上に憎むべきものである。被差別者の自己認識を貶め、被差別者を精神的に追い詰めるからである。

「#21」コメントの流れは、以下のとおり。
(b-1)「異質な他者を排斥・攻撃する」という点においては、私にとって差別といじめはなんら変わらない現象である。
(b-2)差別といじめの心象を捉えるうえで、人の「嗜虐的な性向」「劇場的な性向」は見逃せない。(→差別・いじめにおける群集心理の問題を取り上げている)
(b-3)「劇場的な性向」を持つ人は「場(劇場)」に影響されやすく、「場」にいる者達を巻き込んで、ふだんは抑制できている人々の「嗜虐的な性向」を解放してしまうことがある。
(b-4)劇場によって自分の「嗜虐的な性向」を解放してしまった人々は、劇場が解体するとともに我に返るが、悔悟には至らない。「自分でもどうしてあんなことをしたのかわからない」
(b-5)被害者の存在を忘れて(←※これはコメントの文章には表れていない。補足)「わからない」まま終わってしまう者は馬鹿である。被害者の存在に目をつむり「わからない」まま居続けようとする者は邪悪である。

(a-1)~(a-6)は「差別」が主テーマ、(b-1)~(b-5)は「いじめ」が主テーマの展開だが、書いたとおり、「異質な他者を排斥・攻撃する」という点において、私は差別といじめをことさら区分けする必要はないと思っている。

問題なのは、私が(b)部分のロジックを、「はてな」サービス利用者の一部を念頭に置いて組み立てていることだ。一般的な現象として語っているが、語る元となった事例はごくかぎられたものに過ぎない(ただし、ひとつではない。事例は複数ある)。
特定の事例を想起せず一般論として組み立てた(a)と、かぎりなく「個」を(私のなかで)特定しつつ組み立てた(b)がひとつのフレーム内で繋がり、私のなかで、まさしくナイジェルさんが仰った「差別の構造」が形成されてしまっている。「個」の問題をいったん「集」のレベルにまで引き上げたうえで、一般論としては反論しようのないロジックをもって問題を評論(正当化)し、さらにそのロジックを逆流させて「個」の人格を裁断してしまっている。

Home away Home #3(ナイジェルさんのコメント)
個/集の概念分けは「偏見と差別」を考える上で非常に重要な部分だと感じました。なぜなら個から始まったネガティブな他者認識が集のレベルでポピュリスティックにカスケーディングされ、次にはそのこと自体が根拠となって正当化され、具体的な言動に顕れる一連の倒錯的な流れこそが差別の構造だと考えるからです

最悪なのは(b-5)の部分。これを結論にもってこられたら、私に裁断された相手は弁明・反論のしようがない。反論しても、「自分は悪くないと言い訳するならば、あなたは馬鹿な人か、邪悪な人か、どちらかだ」と私に捻じ伏せられるからだ。これは凶悪すぎる。
私の凶言を予言したんじゃないかという文章があったので、写しておく。

Home away Home #5
自分自身の黒い感情を指さされそうになると、すかさず相手のこころのなかの「誰にでもある自己愛と自己否定の矛盾・葛藤」を指さして、それこそが問題の本質であるかのように言う。相手からの返事はYesでもNoでもどっちでもかまわない。どう答えられようが、相手をさらに否定して勝利できるレトリックがある。


以上。それにしても、我ながらすごいサンプルを産んでしまった。びっくり。

ただし。
私が描いたロジックはたしかに危険を孕んではいるけれども、ロジックそのものが誤っているとは思わない。(b-5)のみを外した(a-1)~(b-4)については、差別やいじめの現象の一面を上手く切り取れている考察だと思う。
こういった考察を組み立てるさいは、多少の反要素や異例があっても、まずは一気に組み立て流してしまったほうが良いというのが私の流儀だ。(a-1)~(b-4)ブロック個々の理屈があきらかに間違っているか、それぞれの繋ぎ目にあきらかな無理があるのでなければ、それでかまわない。全体の流れから浮かんでくるひとつの視点が、具体的な事例を解釈する有効な手がかりとなれば、それで良いと思う。
仮説にすぎないひとつひとつのブロックと、それぞれのつながりを、固定のものとして絶対視しないこと。さらに、一般論として組み立てた仮説に「個」の言動を当てはめて、「個」の人格や性向を裁断しないこと。この二点に気をつければ、私の今回の誤りは回避できると考える。




「Home away Home#5」のくだんの予言部分について。id:mind氏が、ブックマークコメント欄に、同文章を引き写されている。というか、このブクマコメで私は自分の誤りを自覚した。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blogs.yahoo.co.jp/wataritori_novel/48239329.html

偶然なのか・・・ブクマ日と#5の記事構成からいって、そのタイミングでその文章を切り出されたことはなんだか匂うのだが・・・どうなのだろうか。
id:mind氏、もしここをご覧になっているなら、応答していただけるとたいへんありがたく思います。感謝申し上げたい。