鏡、神々、戦わぬ道 #1

以降、記事として体裁を整えることを考慮しません。コメントはご自由に。ふだんどおり応答できるかはわからない。

【追記】鬱傾向の精神を持つかた、とくにお若いかたは、この記事は読まないことをお勧めする。読まずに出てください。回れ右。



タイトルは、ちょっちぷんさんの記事「鏡との戦い」、chargeupさんの記事「神々との戦い」からいただいた。「戦わぬ」というキーワードは「神々との戦い」に付いたナイジェルさんのコメントから発想。
「神々との戦いの結末」もう一つあってもいい、あってほしいと思うものがあります。それは、「神を必要としない」こと。と言葉にするだけなら簡単なんですが…神は死んだ、と叫ぶのでもなく、自らが神となるのでもない。ここの文脈で言えば、「何故他人が助けてもらうのを非難する」というメンタリティがあり得るのか…を問うこと



Home away Home#21-コメント欄。「他者を理解する」努力を意図的に中止した私の底から表出。
人の「嗜虐的な性向」「劇場的な性向」(中略)ホントにわからないなら馬鹿な人だが、自分に不都合だから「わからない」なら、わからないままい続けるなら、邪悪な人だと私は思います。邪悪な人には、私は極力関わりたくないです。それは差別だと批判されても。

そろそろ私のなかで答えを出してもいいかなと思っています。あいつらはただの馬鹿なのか、どうしようもなく邪悪なのか。

Home away Home#22 同、表出。
人を人とも思わないヤツら(中略)ヤツらのほうがオカシイに決まってるだろ。善人の皮を被って世渡りだけが上手なヤツらなんだよ。偽善者は向こうだ。

上記、一般論として書いているが私のなかに数~数十人の該当者あり。「はてな」サービス利用者。IDが明確に浮かぶ者、IDうろ覚えのもの、ID知らず劇場の光景のみ記憶している者、さまざま。「個」に端を発した私の悪意は「集」に向かったまま氷解せず。

#21に#22を対置させることで
-「個の特性」への嫌悪を「集のイメージ」に回収させ自精神界から切断する作用-
を私のなかで確認し確認した作用が私に根を張りゆく現状を認識し「あいつらと私になんの違いがある」と自斬することで「あいつら」と「私」の間にある<と思いたがっている>差異を解消できるか試みたが失敗。この方法は無効。



人の痛みをともに痛むこころから発生する私の怒りと憤りについては存続させる。させるべき。「Home away Home#15-#18」潜水中に触れた無生の領域に行けば怒りと憤りは解けるが生の欲求が著しく減じた精神状態へ移行する可能性なきにしもあらず危険。別の道へ。過去期へは戻らない。



Home away Home#22
あんた、あんた自身かあんたの身内が同じことをされたら絶対に耐えられないようなことを他人には平気でやるんかい。相手がどうなろうがどう思おうがおかまいなしかい。なにその自己中さ。しかもなに、あんたのほうが優勢とわかってるからこそやるわけね。なんなのその卑劣さ。人としてサイテー

「対象行為への怒り」が「対象人格への憎しみ」へとスライドしたあげく最後「対象行為への怒り」はどうでもよくなっている模様。人の痛みをともに痛むこころはどこへ。無い。嘘偽り、自己の憎悪の正当化。



ちょっちぷんさんの記事群「差別したい」シリーズ(中間報告を参照のこと。9,10

読ませていただいたのだが、実は頭に入っていない。読めていない。表層をなぞったのみ。私が探求したい領域を先に探求されてしまったので無意識のうちに私の内界が情報の受理を拒否した模様。ごめん。申し訳ない。文章がまずいという意味ではない。こちらの区切りが付いた時点で、改めて、必ず、かならず。



目指すアウトプットは・・・
直接の関係は無いが、限定公開に移行した「Home away Home #20」の再評価。なぜかわからない。繋がっている。



探求を中止するべき事態・状態については未考
直感で判定する