Home away Home #22

さーて、そろそろ爆弾を投下するぜよ。トリ爆弾。対象記事にトラックバックも打っておこう。

 

前記事のこの箇所、
善人、いや、善人であろうとする人にとって、「自分自身を律している規範」の外にいる者たちとの接触は脅威なのだろう。「その善は無価値ではないか、欠陥があるのではないか」という問いが投げかけられるからだ。怖れが、問いを却下する答えを閃かせる。「あいつらはマトモでない、オカシイ、理解不能だ」。こうして生まれた差別の心情は、善人であろうとする人の善のこころと矛盾する。かくて善人であろうとする人の差別心の表出は、ひどく歪む。真に感情的なことがらであるのに、どこまでも論理的であろうとする。

 

なにを根拠にこうも断定的なのか言ってみれ、とツッコみたくなる文章だが、確かにこういうヤツは存在する。少なくとも、世界にひとりはいるぞ。私だ。コレ、私自身のことを書いただけです。

 

 * * *

 

信教から発したの性向なのか、自分自身の気質なのか、私は「人を人とも思わない人」がものすごく嫌いだ。もうちっと詳しく言うと、「自分は人間らしく大切に扱われたい・扱われて当然と思っていながら、他人のことは人間らしく扱わない・扱わなくてもかまわないと思っている人」がものすごく嫌いだ。人と呼ぶのも腹立たしい、「人を人とも思わないヤツ」で十分だ。
私の「偏見・差別を憎む心情」はここから派生している。平等の精神とか、基本的人権とか、そーんな高尚なものではないのだ。「あんた、あんた自身かあんたの身内が同じことをされたら絶対に耐えられないようなことを他人には平気でやるんかい。相手がどうなろうがどう思おうがおかまいなしかい。なにその自己中さ。しかもなに、あんたのほうが優勢とわかってるからこそやるわけね。なんなのその卑劣さ。人としてサイテー」という話だ。

 

私にとって、「悪質・執拗ないじめ」は「差別」となにも変わらない。人が「集」の威を借り、もともと弱い立場にいる者に狙いをつけ、相手の「個人の尊厳」を傷つけ踏みにじりヘラヘラ哂っているという点において、なーんにも変わらない。
今の時代、公然と「差別」など行えば非常識・不道徳な人間と認定されるから、大人になっても嗜虐的なうえに頭のいいヤツは「いじめ」のほうに傾倒するんだろうなと私は思う。たとえば、標準値から外れていて議論に弱そうでコミュニケーションに不器用な、味方など誰もあらわれそうにない人間なんか、標的としてはサイコーだろう。ネットでちょっと探せばごろごろいるんじゃない。
ああ、そろそろ私も標的カテゴリーの内かもな。なにしろ新興宗教だしな。宗教って【記号】に触れないまま(=差別と認定されない)私を弄り倒すことくらい、簡単ぜよ。しかもY!ブロガーだしな。キモい創作小説とか書いてたしな。条件は揃ってるよな。

 

まあいい。ともかく、そういう自己中で卑劣で他人の痛みにちょー鈍感な、そのくせ自己保身だけは抜群に上手い小賢しいヤツが、私は大嫌いだ。
ちなみに、私はそういうヤツは間違いなくいると思っている。性善説でも性悪説でもなく、人は「人を攻撃迫害できる能力と相手と状況」に恵まれればいつでも人を攻撃迫害しうると思っている。
理性だか悟性だかで超越できる人もいるかもしれないが、私は超越できません、たぶん。私の前の鏡に映る「私自身の可能性」も含めて、私は大嫌いだ。でも、できるだけ努力する。努力し続けてますが。あーしんど。

 

十代のころはとくに潔癖だった。ていうか、十代ってこういうことに潔癖な時期ではないかと私は思っているのだが。人によるのだろうか。
歳をくってだいぶマイルドになった。ネット上で差別やいじめのログを目の当たりにしても、加害者の側の事情も考えられるようになった。なにかしら経緯があるのではないかとか、一面だけ見て決め付けてはいけないとか、一過性のものかもしれないとか。自分に歯止めが利くようにはなってきた。
それでも、見て数時間~数日~数ヶ月続く「許せん!」という一発目の激情はあいかわらずだ。いまだに「許せん!」ログもあるよ。謝ってないからさ、加害者が。まあ謝りようが無いんだろうけど。

 

あー損だ損だ。いい歳こいた者がこういうことを言ったって、頭が幼稚なのかイカれてるのか既に呆けたか、ともかく近寄ってはならん人間と思われて終わりだ。ブログなんか眺めてても、知的な文章を書く人はこういうことをストレートに書かない。書いたら馬鹿にされるか敬遠されるからに違いない。賢い人・粋な人は、こういうことを書いてはならん。という暗黙のコードがあるのだな。
賢い人とか粋な人ってのは、不自由なもんだね。その器から出られないからさ。一生そこにいろや。



さー、そろそろわかってきただろ。

 

「自分自身を律している規範」の外にいる者たちとの接触は脅威

 

私にとっては脅威なんだよ。人を人とも思わないヤツらがさ。私が努めて努めて自分に縛りをかけて律している、その枠の外にいるヤツらがのーのーとしてるのが、脅威なの。

 

「その善は無価値ではないか、欠陥があるのではないか」という問いが投げかけられるからだ。

 

私にとっての善は、世間じゃただの偽善だってのか。くだらない意味のない価値のないひとりよがりな自己満足なのか。冗談じゃねえぞ。世界は腐ってやがる。

 

怖れが、問いを却下する答えを閃かせる。「あいつらはマトモでない、オカシイ、理解不能だ」。

 

ヤツらのほうがオカシイに決まってるだろ。善人の皮を被って世渡りだけが上手なヤツらなんだよ。偽善者は向こうだ。

 

こうして生まれた差別の心情は、善人であろうとする人の善のこころと矛盾する。かくて善人であろうとする人の差別心の表出は、ひどく歪む。真に感情的なことがらであるのに、どこまでも論理的であろうとする。

 

カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ(←ノリにノッているタッチタイピング



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・・・と、こういう心象で前記事が生まれたってわけ。

 

前記事を読んで傷ついたかた、もしいらっしゃったら、ごめんなさい。誰かを傷つけようと書いたわけではないのだが。
私は私の考えを捨てられない。私の考えがあなたを傷つけるなら、ここの主はマトモでないオカシイ理解不能な人間だとあきらめて、ここを去ってください。

 


 

ん? 新興宗教と全然関係ない話になってるな。まあいいや。
私にとって「誠実であること」とはこういうことで、それが「信教」が私にくれた最大の価値なのねん。