掘った芋いじるなは野次。

「芋とは芋掘り」に新展開の予感。
まだ海のものとも山のものとも知れませんが、近況報告も兼ねて。




昨年末、はてなハイクちょっとふざけていたchargeupさんがノってこられて、ほんじゃあということで、前々から脳内に居た「せむし」という男を外に出してみた
思った以上によく動いたので、こちらに放ってみました。
http://d.hatena.ne.jp/wataritori_novel/archive
(2010/1/1から1日分づつ順に読むと通読できます)

なんでこの話が芋話につながるかというと。

chargeupさんに贈った話は我ながらたいへん気に入ったのです。が。その後、どうにも続きを書きたくなった。あれでは彼が「人の世から誤解されやすいが本当は善人」みたいじゃないか。彼はまったく善人ではない。悪人でもないが。
では小猿の話はなんだったのだろうか、と我ながら思い。小猿の話に、私自身はまったく違和感がないので。で、後で、あーそうかとわかった。

せむしと白い小猿が疎通したのは、せむしが善の心を都合良く起こした(=作者によって恣意的に設けられた)稀な機会に小猿が巡り合わせたから、ではなく、小猿のほうがせむしと疎通できる稀な存在だったから。
小猿が「善のあるべき形を有言無言で体現し期待する、象徴としての弱者」ではなく、「自分に要るものを自分の表現において交渉する、個人としての弱者」であったからなのだな、とわかった。
(小猿が前者だったなら、せむしはどう動いていたか、私にもわからない)

昨年末、ちょっちぷんさんと「個と集と善と悪」の関わり合いあたりを芋掘り談義したおかげか、このあたりの機微が鮮やかに手繰れるになった。面白いなと思います。




芋とは芋掘りで、ちょっちぷんさんが
そこからひとつ暫定的ではありますが結論として出たのは、私は「芋」に「集」の属性を与えているということです。

と仰っていた点。なんとなく私には迷いがあって、まだうろうろ決めかねている。
どっちか決を取るとなったなら、私も迷いなく「集」と答えるが、何かちょっとだけ引っかかる。どう引っかかるかというと。

個人が個人として発している言葉がほぼ軒並みひどく芋くさい、という光景を見てしまったことがあって。私はもうよく視えないが、興味がおありなら、ここです。

リンク先にあるほとんどの言葉、その発言を引き出した元の記事、どれも個人が個人として発したものであるし、「個人の自由」を尊ぶ精神に依って発されている。あれらが「集」の傘下にある、とは一見して思えないだろうし、私もそんなはずはないと思って、自分の違和感を扱いかねた。
たいへんわかりにくく、まだ言葉で明瞭には言えないが、あれもまた芋の群れだと感じる。

なんというかなあ。
なんというか、彼らが視ている「(彼らにとっての)彼ら」は、ひどく、のっぺりとしている、と感じる。「象徴としての弱者」ならぬ「象徴としての信者」みたいな。その象徴に向かってあれこれ言っているのだろうな、と感じるのです。自分が評している相手を「個人」として視ている人は、あの中にはほとんどいない、おそらく。
その態度が誤っている、その評が誤っている、とまでは思わない。信仰者が「象徴としての信者」を自ら引き受けたかのようにその言動が定型にはまっていく様子を、私もよくよく視てきたので。だから、彼らの評は誤っているとは言えない。でも、ただ、やはり、残念だ。

特有の型にはまった言動というのは確かにあるよ。その定型をことあるごとになぞると視える人もいるよ。でも、日常のあらゆる時と場でのっぺりと定型な洗脳人間なんて、いないよ。すくなくとも、私は、まだ、見たことがない。

芋を眺めてそれは芋だと言うことは適っている。だが、現実に存在する個人に向かって、彼が芋そのものであるようなモノ言いでモノを言い放つなら、その瞬間に、言い放ったヒトもまた、芋蔓に連なる芋だ。個人として在る尊厳を自らの手に握りたいがために、個人として在る事実を他者から引き剥がしている。人が個人として在ることは、そのようにしてしか、得られないものなのだろうか。

これは「集」に属する問題というより、「個」の限界に根差す問題だと感じます。人が外界を視るとき、世界を「個人としての他者」の集積として完璧に捉えることなど、できない。象徴としての何者か達が満ちているところに、自分が個人と視認できた人のみが「個人」として立ち現れてくる、それが精一杯のところなのだろう。むろん、私も。
そうして、私が過去に属していた世界の住人は、こちらの世界では「個人」として視られることがもっとも困難な人達であるようです。

残念です。




今年の1月に、このようなニュースがあった。

7カ月長男死なせる=病院行かずに「手かざし」-両親を殺人容疑で逮捕・福岡県警

 生後7カ月の長男が細菌に感染して衰弱しているのに、宗教上の理由から病院に連れて行かずに死なせたとして、福岡県警捜査1課などは13日、殺人容疑で、福岡市東区の宗教法人「新健康協会総本部」職員高月秀雄容疑者(32)と妻で同職員の邦子容疑者(30)=いずれも同区唐原=を逮捕した。(以下略)
※2010年2月4日、福岡地検は両容疑者(両親)を「保護責任者遺棄致死罪」で起訴。

ということで、今年は芋掘り遠足ノ弐の続きをやります。

場は、はてなに移します。コメントは全開放で。どういう人と会えるか、未知との遭遇ですな。芋畑になるかもしれないが、それはそれで、いい。芋の山盛から「あなた」の言葉を拾い出して「私」の言葉とコンニチハできるか、やってみようじゃないのよ。うふふふふふ。

こちらで知り合ったかたにおかれましては、万一向こうにコメントされることがあっても、「Home away Home」に記述した事実については言及しないでいただけると、たいへんありがたい。Home記事群はすべて非公開に遷しました。再公開の予定は未定。

こちらの更新はしばらく怠けます。それでは。