芋掘り言外ノ罰

「一年経ったな」
「一年より経ったわい。もたもたしてるうちに過ぎてしもた」
「クリスマス休戦とかあるじゃん。あれ、なんだろね。そこだけ避けて殺し合いするくらいならハナっからすんな、と思いつつ、ニンゲンの人間臭さってああいう、なんつーか、聖と忌を別格に取り分ける心象から始まるのかしらん、とか思ったり」
ユダヤ教徒てクリスマスのお祝いしたっけ」
「しない。そらそうでしょ。近日に別の祝祭はあるけど」
「知らんわ。あーあ、誰も言ったことない海に出るたらタイソウなこと言うといて、池でちゃばちゃば溺れてたよなしょーもないことばっか書いてるうちに今年も終るわ。ウソツキ鳥の相方させられたツキの無い年やったのー」
「『シオニスト批判』に向けて、言い足りないことがあと少しあるんだけど。少しってほど少しでもないけど」
「正直に言えや。『反・反』穴ん中で足掻いてた一年やったてな」
「そうなっちゃいますかね」




シオニスト批判者は、シオニズム批判は反ユダヤ主義とは別物であると主張しているわけよ」
「それが不服なんかや」
「いいや。たしかに別物だよ。批判はユダヤ人自身からも出ている。おもに、イスラエル外の在住者によって。その言がまた、どれを読んでも、いいんだよ。ものすごくよい。惚れ惚れする文章もあった。寛容と受忍を知る信教者が自己の信条に則って批判の言を発するとき、これほど清明な言葉の群が生まれるのか、と思った。嫌味でもなんでもなく。だが、」
「やっぱり不服なんかや」
「不服っつーか。私が引っ掛かったのは。彼らは正義と人道の観点からイスラエルの挙動について真っ当に批判している、だが最後に、ある言葉を添えるんだよ。というか、彼らの批判の言論として、別の批判者によって紹介されているわけ。『シオニズムは、そもそものユダヤの本質には無い思想である』『彼らの思想は、ユダヤの精神に照らして誤っている』という意味合いの言葉が」
「あははは」
「匂ってきたやろ。永年続く信教は、独特の行動様式を確立しているものだろうが、原典に対して従来の行動様式を転換するような新解釈が生まれたなら、新解釈の実践者が多数現れたなら、その新解釈は『別物』であり実践者達は『別人』と視られるだろう。その評が悪いとは私は思わない。そもそもユダヤに対するキリスト、カトリックに対するプロテスタントの分出がこれなんだし。でもこれって、双方が互いのポジショニングを確立して承認しあうまでは、『異端』を巡る争なんだよな」
「様相はな。せやけど、シオニズムの人らが異端視されてるって感じはぜんぜんないで。あんたが読んできた文章のどこにも、それでモメたいう話なかったやん。そもそもあん人ら数多いし、ユダヤの人らのうちでも批判する人らのほうが少ないし」
「んだ。『シオニストユダヤ人のなかでは少数派で、ユダヤ人多数派から異端視され差別されている』なーんて話では、まったくないよ。数の対比でいったらイスラエル在住者と親イスラエル派のほうがずっと多いだろうし。マジョリティは『異端』にはなりえない」
「ほんだら、なにが不服なん。ぐるぐるするわー」
「私もぐるぐるし続けて今の今まで言語化できなかったんだって。えーと、えーと、宗教論争というかな、組織の運営者同士が原典の解釈でがたがたモメるてぇ論争はバカバカしいと私は思っているのよ。けど、個人が自分の『信教』に依って同宗教の他者の『信教』のありかたを批判することじたいは、馬鹿らしいとも無意味とも思わなくなった。それは個人の信念と信念の衝突であって、しかたがないというか。そもそも宗教って、個人と超越者とのちょーパーソナルな関係から始まるものだから、同宗派の者同士だからといって足並み揃えようとすることじたいに矛盾がある、というか。互いの『信教』に不服があっても、相互不干渉の態度を徹底すれば、衝突は避けられるが、それが望ましい態度だとも言いきれない。ひとつの理念と原典に基づいて集を形成しているとき、隣に居る同族者の行動に問題があると感じつつ、不干渉を徹底するって態度は、不自然だもの。誠実でもなんでもないだろう」
「『シオニスト批判』の話からどんどん離れとる。このまま晦日も明けそやな」
「もうちょいで堀り当たるから待ってや。でな、でな、つまりさ、ユダヤ人自身からの批判はあってしかるべきで、批判するさいに批判者個人の信教に照らしての、なんていうかな、異端視というより『異視』というかな、それが併せて表明されることは、仕方がないと思う。正当なる批判の言論と、個人としての『異視』の表明。その『異視』に多数少数の偏りが出たとしても、信教者自身の表明なら、私にとってはそれは【個人の表現】の域にある。まったく問題ない、とまでは言わないが」
「うち、もう寝てええか」
「お待たせ。つかまえたぜ」
「およ?」
「私が今年のはじめネットで見た『シオニスト批判』になんでかずーーーーっとムカついてた理由」
「そか。よっしゃ、言うたれ!」
ユダヤ教の良識的な人達が発した『異視』の表現の群があった。この表現群じたいには価値が在る。そもそも、私がもっとも有効だと思っている『批判』の形は、批判相手の価値体系を知る者がその価値体系に則って、体系の欠陥なり独善性なりを論理的に指摘してゆく手法だと思っているから」
「はよ言え!」
「だが、この信教者の『異視』の表現群に宗派の異なる人達がタダ乗りした、と感じたんだ。ひとつのグループをある行動様式によって正常と異常に分別するために都合が良かった、だから分別の正当性を支える論拠に利用した。それが私はイヤだった。らしい。まして、隣人の宗教にも信教にも無頓着な、他人の信教を簡単に侮り蔑む日本人が、利用しやがった。それが私はどうしても許せなかった。らしい。イスラエルの国家機構なり政策なり軍事行為なりへの具体的な批判を時系列で積み上げていけば、彼らの思想の体系そのものをクリティカルに批判することは十分できるのに、手ぇ抜いてタダ乗りしてんじゃねえよ!・・・ということ、らしい」
「ケケケ」
「あ? ごめん、いまクチダケと交信切れた。なんでそこでケケケなん? 意味わからん」
「あんた、ン十年前に捨てた世界に、なんでそんな拘るん。ていうか、このブログにおったらどんどん強くなるばっかりやな、それ。悪いぃとは言わんけど、気味わるいぃわ。もうちょい、ラクにおったらどやの。うち、気ぃ詰まってきたわ。ケケケくらい、言わしたって」




「なんとか年内に飛び終わったのー。満足かや」
「いや。不満もないけど、満足もない。なんか、なにがなし、なんていうか、虚しいかんじ。何を書いても幸いは無く、深まるは利己への眼差しばかり、という」
「今年は現実もむっきーてなこと多かったし、こんなもんやろ。来年はええ歳やとええなー」
「あんたほんとに他力本願だね。わたしゃ、来年になってもなにか書ける気がしないよ」
「よぉわからんけど、うちの毛羽根の先あたりでウスウス感じるで。あんた、いま、書いたらほんまにおもろいことの真ん中掴まえられてないんちゃうか。そこ、穴んなっててずっぽり抜けとるねん。で、その周りばっかり背ぇ丸めて下向いてぐるぐる歩いとる。みたいな。べつにリコちゃんのまんまでええけど、その猫背は直しやー」
「ふーん。えーと・・・やりかたわからん。もうちょいなんか言って。『脱』らしく」
「めんどくさ。自分の言ってたことでも御年玉にせぇや。ほい」


無題#7

私はこういうことをたいせつにして表現したい。

自ら行うこと。こころを込めること。出来上がりにこだわること。素朴であること。率直であること。やすらぐこと。快いこと。豊かであること。
本質から派生した「とりまくもの」をも味わうこと。そのひとつひとつの意味をよく知ること。自分のために学ぶこと。視点を高く視野を広くもつこと。多くを知ってもあまり語らないこと。言葉だけに頼らないこと。ささいなことも楽しむこと。他人の心遣いを評価すること。他人を批判するときは、しかるべき時・場所・方法を選び簡潔に済ませること。

私はこういうことを警戒して表現したい。

行わないこと。こころを働かさないこと。出来上がりに無頓着なこと。ややこしすぎること。偽ること。不安にさせること。不快にさせること。虚しいこと。
本質の所在を知らず雑な知識ばかり漁ること。そのひとつひとつの意味を問わないこと。他人から評価されるために学ぶこと。視点が低く視野が狭い状態にあまんじること。知らずにむやみに語ること。言葉だけに囚われること。たいせつなことを貶めること。他人の落ち度をあげつらうこと。自分には他人を批判する資格があると勘違いすること。