Home away Home #6

いつごろからか、確信するようになった。
善とか愛とか真実とか、幸せとか、そういう言葉を、マトモにソトで語ってはいけない。
きっと、オカシイと思われる。ヘンな目で見られる。避けられる。陰口を叩かれる。

 

ソトで、私はそういった言葉たちをけして口に出さなかった。ウチの信教をカミングアウトできなかったように。
まぁ、そういうことを大真面目に語る機会もそうそう無いものですが。

 

しかし不思議だ。世間ではフツーに使われている言葉なのに。使われすぎてデフレ起こしてるよと感じるほどなのに。自分は使えない。なんなんだろ、この警戒心。この気恥ずかしさ。ウチの信教に直結する言葉たちだからか。私のこの感覚は異常なのかな。反動か。反発か。どうだかわからない。

 

なんというかな。
なにかの価値を強く強く信じるということ、信じきるということ、そのものが、日本というこの社会では「マトモでない、オカシイ」と見なされている、ように感じる。はっきり言う。そういう人、そういう精神は【キチガイ】の領域に踏み込んでいると見なされる。マトモな交流は不可能と思われる。
・・・のではないか。子供のころから、そう感じていた。
ましてそれが神様となれば。ただひとつの神様ともなれば。オカシさは極めつけだ。
・・・そんなふうに感じていた。なんでだろう。

 

こうも感じていた。
日本人は。相手が外国人ならば、なんとも思わないのだ。そういう文化なのだろうとアッサリ認めてしまう。一神教だろうが、変わった儀式をいきなり始めようが、善だ愛だと唱えようが、いっこうにかまわない。むしろ神秘的だと思ったりする。カッコイーとか思ったりする。日本人は。日本人がそういうことをするのは、ただただ気味悪がるくせにな。なんでだろ。なんでや。おんなじことしてるのに、外国人はよくて日本人はダメなんかい。差別じゃん、それ。日本人差別。

 

この件は、宿題。なにか考え付いたら追記します。

 



【4/7 追記1】
いただいたコメントと、くみママさんからのトラックバック文化と村」を拝読して。

 

(1)くみママさんの記事の以下の部分
宗派に属する事と信仰心を持つ事の違いがいまいちわかならない。
これを読んで、私のなかで【宗教】と【信教(信仰)】、ふたつの言葉は違う意味を持っているとはっきりわかった。この言葉をキーにして、宗教における「集」と「個」の関係性を整理できそう。
おそらく、新興宗教に対する世間の無理解・偏見は二つに分類できる。この記事で私がぶちまけていた不満は【信教】への無理解、くみママさんが記事にしてくださったことは【宗教】への無理解だ。この記事を書いたとき、私はそこが分別できていなかった・・・この二つは、領域が大きく重なっている。混同しても(されても)しかたがない。

 

(2)一般的な日本人が抱いている宗教観について。日本人は無宗教だと思われている。私もそう思っていた。だから、みんな無節操に神社に寺に参りクリスマスを祝うくせに、なんで日本人が一神教を信仰するとこうも白眼視されるのかと不思議だった。宗教に寛容な社会がなんで?と。
くみママさんの記事を読んで、ひとつ仮説を立てた。日本人は無宗教なのではなく、神道・仏教ニ宗教の信仰者なのだが、宗教と文化が密着しかつ外部から自文化(=自宗教)を攻撃された経験が無いので、それを意識していないだけではないか。
宗教に寛容な社会でなぜか新興宗教だけが白眼視されている、のではなく、神道と仏教がゆるやかに融合している「旧宗教」と、一神排他主義を基本とする「新宗教」とが異文化摩擦・対立を起こしているのだ、と仮説を立てれば、私のなかにあるかなりの疑問に答えが出る。予感。

 

(3)nobikingさんが提示してくださった話題「布教」(※入信を奨める形態の布教は、世間では「勧誘」と表現される)について、なぜこの行為が世間から強い拒否反応を示されるのか、(1)(2)のニ点から私なりの整理ができそう。ボランティアとの対比もおもしろい。ここまで記事に盛り込めるかな。今回の連載は、テーマ「偏見と差別」からあまり外れないようにしたいので、宿題として残るかもしれない。

 

(4)くみママさんの記事にコメントしたやりとりで、これは書かなアカンな、と思うことができた。キーワードだけメモ。宗教、信仰、倫理、法律、医療、終末医療、死、埋葬、公衆衛生、秩序、手続き、コンセンサス。

 

(5)みつくるさんのコメントでちょっと考えた。
日本古来の神様は働いているらしいんです。
八百万神(アマツカミ・クニツカミ)あたりのことでせうか。神話を読み物として読んだくらいで、よく知らないのですが・・・個々の名前や物語から察するに、「モノ・コトのハタラキ」に人格を与え神格化したものではないか、という感覚は子どものころから持っていました。ギリシア神話北欧神話とか中国の竈の神様とか、民族宗教の神様というのはそういうものなのかなー、と捉えていました。縁結びの神様とか、典型的(笑)
そういった、人間の暮らし・人生に働きかけてくれる神様達と、世界の仕組みを生み支配しているただひとりの神様と・・・超自然的な存在、とはいってもこれはまったく質が違う。同じ「神様」という言葉を充てていいのかどうか。外国語ならば、違う言葉を充てるのではないかな。日本人の宗教観が未成熟なのは、この分野の「言葉の未分化・未発達」によるところが少なくないのかもしれないですね。なんとなくそう思いました。

 



【4/9 追記2】
海風さんのトラックバック日本の宗教について(メモ)を拝読して。抜粋。

 

宗教、信仰=脱社会?
コミュニティの維持装置としての宗教=社会化(ムラ社会)?
(中略)
布教活動=企業活動? よく似ている
勧誘者のモラルの喪失メカニズム
(中略)
宗教とは、一種の社会である
(jeronimoさんのコメント)
宗教を信じるのは構わないと思うけど利用するのは・・・

 

先、越されたあぁ!(笑)
私はこう ↓ 考え始めていたっすよ。

 

◇宗教とは、「ひとつの規範に基づいて共同体を運営するための装置」ではないか。創始者(開祖)と構成員にその意思が無くとも、結果的にそうのように機能するのではないか。
◇仮に反社会的な宗教活動があったとしても、教義(原理)じたいが反社会的であるとはかぎらない(※教義が脱社会的であることは充分ありえるし、それは容認されるべき)。問題は、教義運用の過激さ・度を越した経済活動の方にあるのではないか。

 

ほいじゃ、こっちはテーマ「偏見と差別」に集中しますわ。うっししし。