Home away Home #5

あわわわ。わわ。前の記事がどうも気にいらない。

 

思ったことを書いた。嘘は書いていない。わからないことはわからないと書いているし。しかしなんだか臭う。私が感じたことに何かを足しているような。こう思ったことにしておこうというか、そういうことにしておこうというか、ビミョーに恣意的なカンジがする。私が本当に知っていること、感じたことを誠実に書ききっていないような。うー。
こういうとき私はちょっちぷんさんの文章を鏡にする。で、自分に問う。私の文章は私に誠実であろうか。前の記事はそうでないと感じる。あかん。検証。

 

臭うのはこの部分。
そういう人達は本当にいる。私は知っている。そういう人達は、世間ではなく、信仰者のなかにいるのである。熱心な信仰者であるほど、偏見にさらされることは仕方のないことだと言い、本当に信じているなら他人の目や口など気にならないはずだと言う。

 

この文章は断定的にすぎる。こんな表現でいいのか。よくない、気がする。
私が直接聞いたことは、なんというか、「世間の偏見は仕方がないことだ、覚悟しろ」なんて悲壮じみた話ではなく・・・無信仰の他者(とくに、家族)からの【無理解】は仕方がないことなんだよ、とか、自分はこうだという軸がしっかり定まっていれば他人の言葉ひとつで落ち込んだり傷ついたりしないものじゃないか、とか、そういうニュアンスの話が多かったような・・・
どっちだって同じことじゃないか、言葉を柔らかめに言い換えているだけじゃないかと見えるかもしれないけれど、そこが大事なんだと思う。言葉が柔らかいということ、言葉に迷いがあるということ、いろいろな受け取り方ができるということ。

 

◆他者からの無理解(※偏見とは言いきれない)は仕方がないことなんだよ
◆自分はこうだという軸がしっかり定まっていれば他人の言葉ひとつで落ち込んだり傷ついたりしないものじゃないか
こういう話は話す人と前後の文脈によって、ずいぶん色合いが変わる。
 (a)自分ひとりの諦観・信念として語る
 (b)あきらめの言葉として語る
 (c)自分を支える言葉として、自分に言い聞かせるために語る
 (d)自分の信心の強さを他者に示すために語る
 (e)他人を説教するために語る
とりあえず思いつくものを挙げた。他にもあるだろう。私が直接見聞きしてきたものはほとんどが(a)~(d)だったのではないか・・・と感じる。ひとりの言葉は一色ではなく、複数の意味が交じり合っていたりもするだろうし。

 

前の記事を読んだ人は、私が見聞きした事例のほとんどが(e)であったように感じなかったろうか。もしそうなら、違うんです。私の体験はそうではなかった。うーん、なんでそう読めるように書いてしまったんだろう。確かに、かぎりなくそういうニュアンスのものもあったのだが。

 

私がウチで見聞きした言説で、もうひとつ気に喰わないものがあった。「自分達の信教が理解されないのは、理解する人を選ぶ教えだからだ」いうもの。選民思想みたいなものです。
これもズバっと書くとウワっと思われそうですが。この文章そのままの言葉が語られていたわけではない。もっと柔らかい迷いを含んだ言葉で語られていた。周囲の【無理解】を自分の内に受け入れるために発話されていたんじゃないか、人によって、語られた文脈によって、(a)~(e)複数の意味合いがあったのではないかと、今の私は感じる。

 

穴だらけの粗い記憶をたぐって、言葉が発されたひとつひとつの事例をできるだけ細やかに思い出す。発話した人、向けられた相手、状況。そうするほど、前の記事はあまりにも一面的だと感じる。信仰者といっても一様ではない。それぞれに、異なる背景と、異なる気質を持っている人達だ。私はそれをよく知っているはずなのに。なんでああいう書き方をしてしまったのかな。
なんか、自分が新たな偏見の種をばらまいてしまったようで怖い。もっと慎重に書かないと。いや、慎重でなくてもいいけど、誠実に書かないとなぁ。すんません。

 

一面を見て。「個」特有の問題を「集」にむやみに押し広げ。ただの印象を真理であるかのように語ってしまうこと。
これって【偏見】のキーワードかも。発見。ちょっと嬉しい。そして多大に自戒(汗)

 

 * * *

 

前の記事を書いているとき、私は感情が昂ぶっていた。

 

私はネットを通して、こういう ↓ 人が居ると知っていた。
偏見に満ちた発言・差別的な発言を他人に投げつけておきながら、相手が対抗すると「この程度の侮辱に耐えられないのは、あなたが自分(あるいは自分の属性・職業など)に誇りを持っていないからではないか。あなたは自分に誇りを持っているのか?」といった質問を投げかける。自分自身の黒い感情を指さされそうになると、すかさず相手のこころのなかの「誰にでもある自己愛と自己否定の矛盾・葛藤」を指さして、それこそが問題の本質であるかのように言う。相手からの返事はYesでもNoでもどっちでもかまわない。どう答えられようが、相手をさらに否定して勝利できるレトリックがある。
そんなヤツいるのか、と思われるだろうが、実際に見てしまったのだからしかたがない。
じつに卑劣なやりくちだ。まさかと思うが、無自覚でやっているならなおタチが悪い。

 

そういう言説を見たあとで、ほどんど同じことを言う人達が「ウチ」にも居たな、と思い出した。ぞっとした。排斥する者の先端と、排斥される者の先端が、同じことを言っていると思った。そうして彼らは、人間らしい迷いのこころを抱えてふらふらする不器用な者たちを両側から挟み込み、人間らしくないこころの領域に駆り立ててゆくのではないかと感じた。
私は、迷う人が好きだ。迷いを、人の弱さだ罪悪だと糾弾する人が嫌いだ。
だから「この構造」が見えたと感じた瞬間、ちょっと平静を失ってしまったようだ。ごめん。

 

前の記事をひとつ弁護しておくと。
「個」ひとつひとつの特性をよく見るということ、断定的表現を避けるということは、たいせつなことだと思う。思い込みや偏見を回避するうえで。
だがそれでも。ウチの信教のなかで見聞きした、さまざまな人達のいろいろな色合いの言葉を、あえて遠く突き放しざっくりと眺め見て、思う。ソトから向けられる偏見のまなざしを、ウチなる人間がウチに取り込み言葉にのせてゆくことによって、次世代の無意識に【偏見】への怖れと敵対心とを刷り込んでゆく、そういう現象は、確かに、あるのではないかな。