Home away Home #4

故・伊丹十三監督の作品「マルサの女2」の1シーンをテレビ放映で見たとき、私はなにかをあきらめた気がする。

 

国税局の職員が調査のため、とある新興宗教の施設に向かう。おかしな法被を着て手にデカい鈴を持った信者たちが、スクラムを組むようにして職員を追い返す。たしかそういうシーンだった。ごく短いカットだったと思う。
一度しか見ていないから鮮明には覚えていないのだが。なんというか。私たちへの偏見を遠慮なく映像化したらこうなるのか、そうか・・・と感じた。十年以上前のことなのに、「そうか・・・」という、このあきらめの感覚だけが私のなかに残ったままになっている。

 

本当に、いかにもありそうだ。現実にあるのかもしれない。倫理のかけらもない教祖に騙されている愚かな信者たちが、奇異な格好で、奇異な言動で、公権力の正当な介入を阻もうとする。ああ、いかにもありそうだし、現実にあるのだろう、もし私がその立場に立たされたなら、私は迷いながらもそうするだろうし、自分の迷いを「正しい疑念」とは感じず、信念の弱さが迷いを生むのだと感じて、自分自身を責めるのではないかと思う。
権力より世間より上位に位置づける「なにか」を内に持ち、行動を惜しまないということ。信教とはそういうものだ。

 

だったら私はあのシーンを、上手い演出・優れた表現だと認めるべきなのかもしれない。そうそうその通り、と。
でもイヤなんだ。認めたくない。やるせなくなる。

 

騙されている愚かな信者たちだなんて、そんなふうに単純に思わないで欲しい。現実にそういう光景があったとしても、そこには、映像にも言葉にも現れない個人ひとりひとりの葛藤が在るかもしれないと、想像してみて欲しい。狂信的に見える人が居たとしても、それは彼ひとりの資質だけによるものではなく、なにかを強く信じること全てに「いっさいの疑い・葛藤を退ける危険性」が内在しているということを、知っていて欲しい。ソトに向かって頑な人達ではあっても、人間的に劣っているヤツらだとか、人としての感情も意思もなにもかもを奪われた抜け殻のようには、そんなふうには見ないで欲しい。

 

こういう要望というか、弱音みたようなことをうかつに口に出すと、「自分で選んだ道だろう、どう見られようが構わないと覚悟しろ」と言う人がいそうだ。「本当に信じているなら、他人がどう言おうと気にならないはずだ」と言う人がいそうだ。

 

そういう人達は本当にいる。私は知っている。そういう人達は、世間ではなく、信仰者のなかにいるのである。熱心な信仰者であるほど、偏見にさらされることは仕方のないことだと言い、本当に信じているなら他人の目や口など気にならないはずだと言う。
不思議だ。なんで? 自分がたいせつに信じているものを、信じている自分自身を、根こそぎまるごと否定する人達が世間にもしいたとしても、なぜ彼らの思考に寄り添い代弁するようなことを言う必要があるのか。どうしてそんな、無理解の塊のような言葉をウチなる仲間に言わなければならないのか。ぐずぐずと迷う仲間を牽引するにはそれが一番効くからか。それとも、仲間ではなく自分自身にそう言い聞かせているのか。理解など求めても無駄だ、あきらめろ、仕方ない、気にするなと。どうだか私にはわからん。

 

まさか、これか。「ウチの信教を口にすれば偏見を持たれるに違いない」と私が確信したのは。私の周囲には熱心な信仰者が多かった。彼らはウチの信教が周囲から理解されない現実について話すことが多かった。私は何度もそういった話を聞いた。聞いたことは覚えている。
しかし・・・聞いたから「自分から口に出すのは止めよう」と決心した、という記憶は、無い。聞いて私がなにを感じたかという部分を、どうにも覚えていない。なんでこうも覚えていないのか。

 


 

念のため付記。
リンク先の解説を読んでいただければわかるのだが、「マルサの女2」は新興宗教を隠れ蓑にした脱法行為の横行という「社会悪」を摘発した作品であって、新興宗教そのものを揶揄・風刺しているわけではない。そうわかっていても、上記の1シーンだけは、私はどうにも受け入れられなかったというハナシです。

 

【追記:2007/4/2】
文意が伝わりにくいと感じた箇所を訂正。また感情的な言葉を一部削除した。