リライト

いま目の前にいる彼のこころを量ることはできない。あるいは、量りきれない。しかしこちらの主観を鎮め長く関わってゆくことで彼の精神を測ることはできる。彼の「変化」のありようもある程度測量できる。
測量したものは、全体・総体・実体と呼んだほうがふさわしい質量を備えた立体的なものであり、さらに変形し変化するものであるから、言葉のようなものでその存在を示すことはできない。ただし掴まえることはできる。



長く見続けるほど混乱が際立ってくる人物がいる。態度と言葉、行動と言葉、言葉と言葉のつながりがひどく捩れている。
彼の内界そのものが混乱しているのか、彼が外の事象に振り回されすぎるのか、彼の精神の変化が非常に速いのか・・・そういった種類の混乱を有している人はわりと好きだ。人間らしいと思う。哀切、可笑しみ、ダイナミズム。魅力的に感じることすらある。

他人に自分のいろいろを見透かされまいとしすぎる人の饒舌さがいつしか綻んでゆく、自分も他人も傷つけてゆく、そういった種類の混乱には魅力を感じない。そういった種類の混乱をことさら価値ありげに書くことは馬鹿らしい。文章はそういうことには使わないほうが良い。
そういう人がいるということではなく、そういう人をわざわざ創作してまで書きたくはないという話。



しらばくれること、嘘をつくこと。それらを人の機微、優しさと捉える人もいると推測する。そのように感じられるしらばくれや嘘は確かにある。無神経な直言よりよほどマシなときがある。

しらばくれと嘘の全てが許せないのではない。悪意を隠蔽するためのしらばくれと嘘とが我慢ならない。悪意はあって自然だ、弱さを誤魔化したいという心情も自然だ、私はそれらを否定しない、それらはあって当たり前と肯定すべきものだ、けれども悪意と誤魔化しとが緊密に連携した狡猾な態度を憎む。そういった態度を延々と続けて全く恥じない精神を感知したとき、私の心底からの軽蔑が発動するだろう。

いまのところ、私に心底からの軽蔑を発動させた人に「出会った」ことはない。そんなヤツほんとにいるのか。と理性はいうが、私の内界はそういう人物を想定して止まない。仮想敵というやつだな。
ここは根がおそろしく深い。たかが理性の手には負えない。