掘った芋いじるなは護持。

ちょっちぷんさんとこのキーワード「平気で嘘をつく」を、私バージョンでやってみますぜ。


私の問題意識は、
【A】自分の負の感情とその出所をありのまま見てそのまま肯定する
ことなく、
【B】「負の感情を抱かされている自分」を感じ、この負を解消するべきは自分ではなく別の誰かであるとして、自己のいっさいを正当化しようとする
そういう精神の働きがある、という点です。

【A】の「そのまま肯定する」というのは、開き直るということではないし、「悪いのは自分だ」と自分を責めることでもない。扱い難くみっともない自分をそのまま受け容れる、といったところです。扱い難くみっともない誰かを家族としてあるいは友人として、そのまま受け容れ寄り添ったことのある人なら、わかる感覚だと思うのだが。それが自分に対してもできる、といったかんじ。

私は【B】じたいはさほど問題と思いません。誰にでもあるだろうし、私にもよくある。
問題なのは、【A】を一度も通過したことのない(ように見える)【B】です。怒り、嫌悪、蔑み、嫉妬といった感情を自分のものとして引き受けない。本人が引き受けないので、その軽減・解決は周囲が負わなければならなくなります。
<【A】を通過しない【B】>の人であっても、コミュニケーション下手であれば、彼の精神の表出はたいして害がない。すぐ他人のせいにする、幼稚だ、言い訳がましい・・・とか評され周囲が呆れて終わりでしょう。しかしコミュニケーションに長けた人であると、厄介になる。彼は「その軽減・解決」を周囲が負わざるえないように仕向ける、自分に合わせて周囲を作り変えようとする。周囲は彼のちょっとした言動ひとつひとつに支配される、そこまでいかなくとも、振り回されることになる。

さっき「引き受けられない」と書いたように、これは能力の問題だと私は思っています。ちょっちぷんさんは「主に意思の問題」と捉えていらっしると拝察するので、この点は相違がありますね。

例を出すと。子どもは、<【A】を通過しない【B】>かつコミュニケーション下手な人、の典型ではないかと思う。負の感情を容赦なく外へ出すし、理由を尋ねるとまず誰かを指差して「だって○○が(悪い)!」と言うでしょう。思ったことを正直に言っている(笑)
子どもは自分を正当化しようにも未発達なので、大人にやりこめられたり無視されたりして、そのうちこれを発現させなくなりますが。

では大人では。大人であってもそういう人は多いんじゃない、と私は思っている。大人は露骨には言わないだけ。
対面コミュニケーションではここをクリアしたように見える人であっても、面と向かわない誰かやニュースを相手にすると途端に、簡単に人に向かって憤慨したり嫌悪したりするうえに、そのような自分を一片も疑わないということがある。そういう態度を見ると、「あ、(【A】通過とは)違うのか」と私は思いますね。彼は、自己中なことを他人に面と向かって言えば相手から否定されるというコミュニケーションの綱引きにおいて「自分の悪感情を他人のせいにしないこと」を修得したのであって、面と向かって自分を否定することのない相手か、自分を否定する資格がないと感じるほど見下した相手であれば、そのタガは外してかまわないのです。

【A】を通過するには、内観という作業が要る。これは一種の能力ではないか、発達とともに必ず備わるわけでもないのだろう、と感じます。先天的資質か、訓練によって獲得する技能かが要り、さらに自分の感情の動きをよく見たいと感じる何らかの契機が来ないかぎり、内観の視点というのは生まれてこない。私個人は、契機はあった、資質は低いが訓練で補っている、と感じます。

もし私がこの件を「個人の意思の問題」として問うなら、彼の身近に【A】を通過しているらしい人がこれまでいたか、その人との交流を心地よく感じたことがあるか、を尋ねるでしょう。彼が学習する機会を得ていたかの確認ですね。そのうえで、次の問いを考えます。



前に書いたこのあたりの態度↓

掘った芋いじるなは虹_コメント欄

わたりとり>【何かを損うことそのものを楽しむという嗜虐の衝動】を発現させつつそれを自分自身の欲求として認めない(否認)態度
わたりとり>他人から見て「楽しんでいる」とはとても思えない、本人も「私だってつらいが敢えて」と意識している行為であっても、その行為が相手がポジティブな反応を示していないにも関わらず『繰り返されるならば』、必ずそこには行為者の「快」の感情がある

これは「平気で嘘をつく」のわりと見えやすい形だが、だいぶ川下の現象だと思っています。で、私は川下にはあまり興味がない。この域にこだわってもしようがないと感じるからかな。
川下で他人がごたごた言っても流れは変わらない。当人にとっては、自身のこれまでの記憶と自分を取り巻く環境とが集約された流れだ。つまり「平気で嘘をつく」精神とは、その構造の厄介さはともかく、当人の自尊感情にかかる域にある。

これ、「平気で嘘をつく」人の嘘を叩き潰してやりたいという衝動に駆られたことのある人は、直感としてわかっているはずです。
私は特定個人の「嘘」を暴くことを良しとしませんが、例外のときもあって、そのさいは相手だけがそうとわかる(と私が推測した)嘘の急所を一打し、早くその場を離れるようにしていた。それ以外にやりかたがわからん。嘘を暴きたいと欲する者のなかにこそ、他人の自尊の城砦を突き壊してやりたいという嗜虐の衝動がある。それは相手側にも伝わっている。ろくでもない話です。




「平気で嘘をつく」精神の、<【A】を通過しないで【B】>という経路のうち、私がいま関心あるのは「正当化する」の部分です。
人はいったい何をどうやって「正しい・正しくない」の枠取りを行うのだろう、それを強化したり軟化させたりするのだろう、人の内で「正しい」の枠組みがはっきりしてくると、その枠組みじたいが新たな怒り、嫌悪、蔑み、嫉妬を生み始めるので、このテーマは軽くはないと感じる。

「正しい・正しくない」という言葉だと「正義・不正義」のみの意に取られるかもしれないが、私が対象化したいのは、「良い・悪い」「マトモ・オカシイ」といった価値判断全般のよりどころとなる枠組みと、それを形成したり変形したり解体したりする精神の働きはどうなっているのだろう、というところ。

このあたりは心理学で行ける領域なのだろうか。行けるのかもしれないが、私はその心理の綾を知りたいわけではないしな。そのあたりの精神の力動を自分自身から掴みだしたとき、掴みだしたものを使って、私と全く異なる「正しい・正しくない」の枠組みを持つ人と何かを話せるかもしれないと感じる、だから知りたいと思う。

最近ネットで、やたらと「反日」という言葉を使ってむやみに国内の外国籍の人達を敵視する勢力があると知って(彼らを「勢力」と呼ぼうとする意識じたいが私には芋くさいが、いまはとりあえずこのままとして)、私自身はどうなんだろうと考え中です。
ある歳の頃まで、私だって「日本」とはこのようなものだという枠組みと、自分はその枠組みを支える族に属するという充足感を持っていた。昔いた信教(新宗教)は神道と仏教と祖霊信仰とのコンプレックスだったので、私が持っていた枠組みと充足感は同じ年代の一般的な感覚より強かったかもしれない。その後、信教を離脱する前後でこの感覚を洗い直したが、私がそうできたのなら、誰にとってもその可能性は開いているはずのものでしょう。

このような「枠組み」は「正しい」、あのような「枠組み」は「正しくない」、などとという審判は、私は極限までやりたくないけれども・・・
指も触れないほど掛け離れた精神があってそれらが衝突するとき、私がその当事者であってもなくても、自分が納得できるやりかたで関わる道を探すために、このテーマはクリアしなければならないと感じています。