つる。つれづれ。ずらずら。#16

書く気霧散中。越年無理。メモのみで仕舞う。
 


 
 
今回の件は < 議論として臨むなら > 私には、「他なる権利(※基本的人権)との調整=公共の福祉」の問題でしかない。権利の調整のありかたをめぐる議論であるから、調整の相手側の権利の内実と調整のありかたと再審のシステムを順々に問う。
しかし「表現の自由」そのものを容易に制限されてよい下位の権利と位置づけている論には、私は徹底して抗らう。
 


 
障害者の精神と権利
 
少年の「精神」を庇護するという名目で、彼の自己決定権を制限する社会システムを正当とするならば、その理路は、知的障害者発達障害者・精神障害者の権利の制限を正当とすることを忘れてはならない。
今回の件は、無視し続けられてきた女性の権利の回復をめぐる議論でもあり、私は女性の権利の回復を阻みたいわけではないので、議論の解体を招きかねないこの論を挟むことはしなかった。だが、彼らを視野に入れたとき、今回の件は「健常者」の「健全」をめぐる争い、彼らが「予め・完全に・除外されている」権利闘争であることは間違いないと思っている。
 


 
表現とインターネット
 
行政が商業の流通を法令で制限するならば、次に、個人のネットワークを媒介した情報の拡散の制限を考えないはずがない。
 
思うところはあるが、今回は止める。
 


 
セクシュアル・マジョリティ/マイノリティ
 
そこに至る幾つかのルートのひとつに、自と他と世界の認識を組み上げるただなかで異性とのただならぬ性を通過する道なりがあったのではないか、と思ったりする。

書いた1時間後くらいに脳内ツッコミが入った。性愛の対象が異性でない人もいる。性愛を持たない人もいる。「予め・完全に・構想から除外されている」か。
自分という個人を起点にして書くとき、自分の領界に欠けている人達を文章のうえでだけ掬いあげて文章を仕上げる真似はしない。ろくでもない。「除外されている」まま書いてよい。ただ、まだ、彼らが私の領界に入ってこない、私は彼ら彼女らと「出会った」ことが無い、ということは、残念。
感受性激しくズレてる男と女が、相手を悦ばせたがったり、悦ばせてほしがったり、なんでそんな無理をするんやろ。無理するところが人間らしいと想いもするが。terra incognitae.
同性同士はそのへんだいぶ違うのやろか、とか、少なくとも互いが互いの感受・享受の感覚をまったく理解できんという状況は生じにくいのだろうか、とか、身体の性がそうだとして ならば 精神の性はどのように往くのだろうか、とか。terra incognitae.
 
いつか、私は、未知なる人と出会える。
 


 
穢れと性と病
 
私にはたしかに、性を汚いものとして遠ざけたい欲があった。どこで変わったろうか。
生身の肉体はいまだに好きでない。が、汚いとは思わなくなったのは、二十代のあのあたりか。
 
動くことままならない若くない病人に幾人か、触れざるをえない状況が来た。病人をありのまま言えば、病人とは、醜い。汚れる。臭い。そいつのいちばん見たくないところを見、触れたくないところを触らなければならない。その繰り返しだった。あれだな。
そのうち慣れた。あの後、私の性への潔癖ぶりはだいぶ和らいだ。わかった。人の体は当たり前にこういうふうになっている。そうして知った。病人は、そういう「私」を異物と見做すこの世界に反抗するように、わざと動くことを拒んだり風呂を拒んだり部屋を換気することを拒んだりする。そうであるのに、なぜだか聖なる場・公けの場には、自ら風呂に入り歯を磨き髪を梳り服を整え、自分にできる精いっぱいの「清」をもって赴こうとする。
穢れとは何か、いまだ 私にはよくわからないが、この身に必ず在る汚穢をめぐって 俗 と 聖 が 何を司ろうとしているかは、わかるように思う。
 
性の秘匿と病の秘匿、性への嫌悪と病への嫌悪、は、ごく近い。
 


 
ずれ甲斐のある仕舞いが付いた。
 
2010年に、ありがとうありがとう。みなさま、よいお年を。