先生への手紙 序

先生、ご無沙汰しております。
毎年 年賀状をいただくたび、今年こそ先生とお会いしたい、お電話しようか、と胸をあたためながら、しかし何をお話することができようかと恥ずかしくなり、そのままとなっていました。
 
私は、私の姿と、仕事と、ふだんの立ち振る舞いとを知っている人の前では、自ら言葉にしてみたいと本当に願っていることを話すことができません。相手が家族であっても友人であっても同じです。
私が話すことは、というより、そういうことを伝えたいと熱を込めて話す私のありようは、十中八九、相手を強く不安にさせるか混乱させると思い続けているからです。
 
先生の前では、あるいは違うかもしれません。
しかしやはり、なんの準備もなくただお会いして、なにかまとまったことを一つでもお話できる自信がありません。
 
それで、まず、先生の顔を思い浮かべて、私がいま言葉にしてみたいと本当に願っていることをなにもかも洗いざらい、書いてみようと思い立ちました。
書いているうちに、まとまりがつくかはわかりません。
書いたのちに、先生にこの場所をお見せできるかも、今はわかりません。
 
余談ですが。
私は5年前にこの場所で、たいへん長い物語を一遍書きあげて、一度もお会いしたことも電話したこともないかた達に読んでいただいて、感想まで聴かせてもらうという幸せを得ました。その物語を自分の娘に知らせるかどうしようか、いまだに迷っています。知らせるとしても、私が書いたとまで知らせるかどうかは、なおのこと迷います。
いま娘は、私にとって、もっとも気どりのないありがたい友人になりつつありますが、創作の文章で彼女に対してさえこうなのですから、先生にこの場所をお見せするかどうかについては、さらに迷うでしょう。
 
それでも、できるかぎりお見せしたい、と思います。
 
いつか先生から同人の文集を数冊いただいた、あの中に、私が知っている先生の姿と、お仕事と、ふだんの立ち振る舞いからはまるで想像しなかった別れの掌編を読んだときに、私はとても嬉しかったのです。
人は自分のこころのなかに、周りの誰にもやすやすと了解されない風景を持ってもよいのだということを知り、ほとんどの人はそれをありのまま表に出すことをためらうのだから無理に出さなくてよいのだと思い、そこにこそ授業ではまったく教わらなかった愉しみとしての文章創作があるらしいと感じました。そうして、先生はそれを、先生という以上に先達として、個人としての私に開示してくださったことが嬉しかったのです。じんわりと。
 
 
私はこの場所では、自分の現実の年齢、性別、出身地、現在地、職業などを語っていません。今後も語らないつもりでいます。
先生にここをお見せするとしても、先生が偶然ここを見つけてああこれは君だなとお分かりになったとしても、どこの誰と言わないでおいてくださると、ありがたいです。