問い、応え、問われ、問う。


私はわたしを中心に円を描く。貴方はあなたを中心に円を描く。
どれだけ自分の円が大きくなろうと、自分ひとりの円はこの同じ中心から動けない。しかし貴方と私で一緒に描く円は、そら、こう、ずっと大きくなる。私でも貴方でも届かないはずのところまでぐっと囲んで、楕円を描くわけだ。そういう描き方ができるかどうか、という。


「理解した。だが、こういう場合はどうなる。私はその人にわたしの考えを語るが、私がただ知っている知識を喋るのではなくただ頭で理解している概念を話すのでもなく、わたしの体験から引き出した自らの真実を伝えるのだが、その人はそれを、私と一緒に何かを理解したり協働したりするために聞こうとはせずに、ただ自分の世界をより高度で隙の無いものに建て増すように使う、というような時は。私が開示したものが、私の思わぬところで、わたしの意図にまったくそぐわない方角に向かってただ利用される、という時は。誤解されることを私は怖れないが、利用されることは我慢ならない。


利用される、だとしても、だからどうということではない。
貴方の円があり、そこに私の言葉が映る、そうして、、、ひとりで描くのか、、、一緒に描こうか。


「…



私が我慢ならないものとは何か。
何故それほど許せないのか。
その人、と相手を呼ぶ自分の心中を見れば、事の核心にあるのは、「貴方」であるべき人の精神への真の疎外であるところまでは解る。私は何故、これほどまで、それを私の内から閉め出そうとするのだろう。


私よ答えよ、とは言わない。言葉が届かない域にある。言葉は、私を、わたしを中心とする円の内へ留めるようとするだろう。そこに答えは無い、感がする。
だが私は、応えたい、とは思う。応えることはできる、感がする。答えはおそらく、私でも貴方でも誰の円の内でもない、そういう場所にあるだろう。