35.血の器#6

 パドが困惑した顔でシンを見やった。シンは知らん顔をしている。
「……私はAクラスなんだ。だから行くんだよ」
 静かな声が沈黙を破った。ニッガがこちらを向いていた。
「でも、だからって、」
 ニッガは優しく続ける。
「抗体管理者は共同体にとってたいせつな人だ。彼らを失うわけにはいかない。私の『仕事』は替えが効く、他の誰でもできる。だから私が行くんだよ」
「あなただって、たいせつな人です!」
 叫んだウィルに、ニッガは、はにかんだように笑った。「ありがとう。とても嬉しいよ」
 シンが一同を促した。
「さあ、出発の準備を」
 シンが自分の竜にまたがった。鞍に括りつけられた大きな皮袋から、金物と壜(びん)がガチャガチャぶつかる音がする。抗体注入に必要な器具が入っているのだろう。パドもまた自分の竜にまたがり、その後ろにルロウの男を一人引っ張り上げた。ロックダムには、ニッガと残る一人が登るようだ。
 レイリーと並び、黙って様子を見守っていたウィルに、パドが声を掛けた。
「おい、お前が指示しなきゃ始めらねえだろ」
「え、俺?」
「竜使いでない人間を乗せて走るんだ、マスターが命じなきゃパルヴィスは動かないぜ」
 そうだ、ボーッとしている場合じゃない。だから自分もここに呼ばれたのか。ロックは鼻を荒く鳴らし、脇に立つニッガを睨んでいる。なんでお前を乗せなきゃらないんだというふうに。
 ロックの鼻先に立ち、口髭を握りながら語りかけようとして、動けなくなった。ロックは全然こちらに集中しない。うわの空で周囲の人間に気を取られている。……まてよ。マスターが命じればロックはニッガ達を乗せる、ということは……もし、ひょっとして、万が一、乗せなかったら? それって俺は……
「どうした」
 シンが竜の上から不審そうに尋ねた。ウィルは彼を見上げながら、口をぱくぱくさせながら、ものすごい勢いで何をどう言うべきか考えた。駄目だ。言葉が浮かんでこない。恐ればかりが胸のなかを回転する。もし、ひょっとして、万が一……そんなこと、ここに居る人達の前で起きたら、俺は……
 だしぬけにパドが口を開いた。
「シン、ちっといいか? 乗り方を変えようぜ。歳くったこいつよりあっちに俺が乗ったほうが、三頭並んで効率よく走れると思うんだが」
「……好きにしろ」
 シンの答えも待たずに、パドは下に飛び降りた。自分の竜の鼻づらを掴み「頼むぞ」と一声、ニッガを手招きして鞍の上に押し上げると、自分はさっさとロックに騎乗した。「さあ」と下に手を伸ばし、三人目の男を後ろに乗せる。確かにそうしたほうが、竜の負担は均等にばらけたように見えた。「よーし、出発しようぜ」とパドは手綱を握った。
 薄暗くなってきたミード草のトンネルを、三頭の竜が駆け去って行った。その後姿を見送りながら、ウィルはレイリーに気付かれないよう、小さく小さくため息をついた。
 パドに助けられた。あいつ、わかってて言ったんだ、乗り方を変えようと。癪にさわるけど、でも本当にありがたかった。
 たぶん俺はロックのマスターじゃない。もうマスターにはなれないだろう。ロックは遠からず、パドをマスターに選ぶだろう。それは仕方ない。それはいいけれど――エヴィーとシーサは、いやシーサだけは、なんとしてでも俺がマスターになる。なんとしてでも。