Home away Home #13

ある精神科医のかたのブログで、「眠剤を飲むことに抵抗を感じますか」という問いかけを読んだ。
閲覧者からのコメントには、程度の差はあれ「抵抗を感じる」・・・脳に作用する薬はちょっと怖い、薬に依存する体質になってしまわないか不安だ、といった意見が寄せられていた。ブログ主は、自分自身が服用しているが副作用も依存もない、「眠れない」という不安を抱えたまま不眠のスパイラルに陥るよりは(用法を守って)服用し睡眠サイクルを正したほうが早く回復できる、といったことを丁寧に書かれていた。お若いかただったが、誠実なお医者様がいらっしゃるのだなあと思った。

 

私はそのかたのブログで、「近代医学・医療に対する懐疑と不安感」を持っている人がこちらの世界にも一定の割合でいると知った。そうした懐疑と不安はふだんは表に出てこないけれども、疾患が完治しないもの・精神的なものになるほど、医師とのコミュニケーションが粗悪であるほど、はっきりと立ち現れてくるのかもしれない。

 

近代医学・医療に対する人々のうちに秘められた不信。どのようなものか。私のような、特殊な環境にいた者の見方は、ひどく偏向していると思うが・・・こういうものではないかな。

 

自分の傷みと痛みの回復が、機械を修理することのように扱われることへの懐疑。不安。怖れ。疎外感。

 

疾患の原因を「身体への特定の異物の侵入」「身体の特定の部位の異常」等に求め、投薬・外科手術といった手法で完治せしめるという近代医学(科学)のありかたを、私は否定しない。とくに、生命に関わる疾患や急性疾患にはたいへん効果的だと思う。
けれども、ヒトの疾患の多くは「特定の異常の有無」で白黒が決まるような単純なものではなかろう、投薬や外科手術による治療は一時的な対処療法に過ぎないのではないか・・・という感覚を持っている。ヒトが病むということ、そしてヒトが健やかであるとういことは、もっと全人的な問題ではないのか。身体と精神と生活と環境とが切り離せないものとしてつながり、相互に作用しあっている、どこかが病めば全体が病んでゆくだろうし、どこかが回復すれば良い作用は全体に波及してゆくだろう。
この考えはウチの信教で見聞きしたことから自分なりに導いたもので、「妄言」と批判されるなら、他者にとってはそうだろうなと思う。高校レベルの化学・生物学の知識と初歩的な身体生理学は学んだが、自説を裏付ける科学的根拠は何も持っていない。

 

・・・と、ここまで記事を書いて、調べてみたら、驚いた。
「全人的な」という言葉に聞き覚えがなかったので、私の創作語だと思っていたら、医療の専門用語として使用されているのだな。興味のあるかたは「全人的」でググッてみてください。
愛和病院ホームページ-緩和ケア・緩和ケア病棟について-全人的医療
↑「4つの痛み」が興味深い。モルヒネ投与に対する患者さんの不安に、丁寧に回答されている点も素晴らしい。

「全人的医療」が医学会でどのような位置を占めているのか・・・「マトモな医療」と認識されているのか異端視されているのか、私は知らない。これはプロのかたの公平な意見を聞かなければわからないので、私が語っているから信憑性があるとか(逆に眉唾であるとか)判定せずに、御自分で検証してください。すんません。

 

ウチに居たころ、近代医学・医療に対する私の視線は厳しいものだった。教義が近代医学を否定していたから、というより、医学で完治しない病を抱えている人たちを実際に多く見てきたし、原因特定できない痛みや熱を抱える患者が各科をたらい回しされること、充分な説明がないまま大量の薬を処方されることに、疑問を持たずにはいられなかったからだ(このすべてが私の経験ではないが、ごく身近なところで経験した)。
だから、臓器移植・遺伝子治療といった医学の進歩に対しても強い不信感を持っていた。それは「問題対処型医学・医療」の極まった形態だと感じたから。身体に人工的な措置を施すということじたいに宗教観からくる嫌悪感を持っているし、そうでなくとも、「不具合ならパーツを交換すればいい」と見える思想そのものがナンか違う、間違っていると思った。

 

ウチを出てから、近代医学・医療に対する私の考えは変わった。
というより、おそらく、医療界が大きく変化してきたのだと思う。私は最近(やっと、というべきか)、「医学=治療するための科学的技術」と「医療=治療の周辺ケア(患者とのコミュニケーションを含む)」を別けて捉えるようになったけれども、これは単に私がソトに出たからではなく、私が以下のようなトピックを通して、医療界が「全人的な」方向へ進む変化を感知していたからだ。
インフォームド・コンセント
ターミナル・ケア(終末医療)
セカンド・オピニオン
この他にも、総合病院において、入院患者の不安や怖れを緩和するための相談カウンセラーが配置されたとか、「特定の科に振り分けられない身体不調」に悩まされる患者を統合的にケアするための専門科が設置されたといったニュースにも注目していた。

 

いまでは当たり前のものになってしまったが、「インフォームド・コンセント」という言葉が出始めた頃はたいへん注目された。一般の新聞や雑誌で、何度も取り上げられ「推進してゆく必要がある」と論じられていた覚えがある。逆にいえば、それまでの医療界では「治療内容についての充分な説明&患者の同意(納得)」すら当たり前でなかったということだ。(おそらく)二十年ほど前までは。
内情は私はまったく知らないけれども、医療界は私が思っている以上にドラスティックに、そして「人」に対して誠実に、動いている世界なのかもしれない。

 


 

歴史に「もしも」は無い、とわかってはいるけれど。
もし、ウチの教祖(開祖)が今この時代に生まれ、今現在の医療を知っていたら、彼は近代医学・医療を完全否定する教義を書き残しただろうか。と、不遜ながら思った。

 

宗教は創始者(開祖)を通して、天啓として生まれる。時代へのアンチテーゼとして語られるわけではない。それもわかっているけどね。離脱した不信人者はこういう発想をしてしまうのでした。御無礼御免。