鏡、神々、戦わぬ道 #10

世話になった伯父をひとり。まだ高校生だった教え子をひとり。交通事故で亡くしている。
数年、運送業界で仕事をしていたとき、同僚が死亡事故を起こした。その人の処遇が気になりそっと確認を求めた総務担当者から、彼も過去に死亡事故を起こして内勤に転じたのだと、ぽつりと明かされた。

不注意。無謀。怠慢。といった言葉で、それぞれの事故を片付けてしまうことはできる。じっさい、避けようと思えば避けられる事故だったろう。
それはわかっているのだが。言うまでもなく、不幸な事故を望んでなどいないのだが。いつのころからか私は『避けられない加害、避けられない被害』という感覚を持ち始めた。

年間に一定数起きている死亡事故。死亡にまでは至らないが後遺症が残るといった事故もある。仮に私が七十まで生きるとすれば、それらは数十万件の数になる。必ず発生する加害と被害。
そこに巻き込まれたくないならば車を運転しなければいい、車に乗らなければいい、道路に出なければいい・・・と言って済ますことはできない。車は生きていくために必須というモノではないが、社会で生きていくためには関わり合わざるをえないモノだ。

臆病な私は『避けられない加害、避けられない被害』の抽選から外れることを願うのみだ。私自身と、私の家族と友人とが、不幸なクジを引きませんように。今日も明日もあさっても、私の認知が終わるその日まで。

交通事故にかぎらない。事故はいつどんなカタチで降りかかってくるかわからない。
あるいは事件かもしれない。
私の気がフれてある日突然誰かを傷つける、あるいは殺す、そういう日が来ないとは私は断言できない。傷つけられ殺される側に立つかもしれない可能性は、さらに未知数だ。

もし加害の側に立ってしまったら、もちろん私は被害者に詫びるし損害を補償する(私の意識が正常であれば)。それは世間から求められる行為であるし、私にだって良心はあるから。しかし善良さに欠ける私の内心は、おそらく、自分の運の悪さを恨むばかりだろう。反省などしないと思う。抽選に当たってしまった運命を嘆いて自分を哀れんで一生を終わる。私はそういう弱い人間だ。

もし被害の側に立ってしまったら。加害者は、私が生きているなら私に、私が死んだなら家族に、金で生活を補償して欲しい。あとは誠実に見える謝罪を一度でいいからして欲しい。本心でなくていい、精一杯の演技でかまわない。それでいい。あなたは運が悪かった。私も運が悪かった。

 * * *
 
私は怖いのである。

自分自身が、家族が、友人が、命に関わる加害・被害を生み出し続ける『システム』に則って生きざるを得ないこの社会が。

いいや、そこはとっくに神経が麻痺している。それがどうした。社会とは常にそういうものではないか。

社会は常に、社会によって害われる一定数の人々をコストとして織り込んでいる。そうして成り立っている『システム』から多くの物質とサービスを享受している私。ああ、豊かな社会だ。片目をつむって眺めれば、実に豊かな社会だ。
できるかぎり加害・被害を増やさぬよう、たしかにシステムの改良は繰り返されている、だがそれに勝る勢いでシステムはますます複雑化し高速化している。供給される財とサービスと情報は今後ますます豊かになるだろう。全体から見ればごくわずかのコストは払わなければならないだろうが。・・・『ごくわずかなコスト』のなかに私が入りませんように!

そこはとっくに神経が麻痺している。私はクジ運の悪い人間だ。幸いのクジを引かない代わりに、不幸のクジも引かないで一生を終えるだろう。なんの根拠も無いが、そう思っている。

ただ、私は怖いのである。
そうした社会に生きていることを自覚せずに、不幸のクジを引いてしまった不運な人たちを「許しがたい罪人」と吊るし上げ断罪して喜ぶ人々がいる、ということが。『システム』によって人が人を利用し、さらに害い、さらに裁き下すことが繰り返されていることが。
どこまで人に冷たいんや、あんたら。私はそっち側へは行かんぞ。行ってたまるか。絶対に行くもんか。


 * * *


鏡。鏡に映る「私自身の可能性」。
神々。逃れられぬ「社会というシステム」。

私は戦わない。だが取り込まれない。
そのために、私は書いている。
先はまだある。どこまで書けるか、楽しみだ。