欠落の1page

私の記事からリンクで繋がっている記事がおもしろいです。ということで、メモリンク。引用はすべて私の発話です。

(1)鏡、神々、戦わぬ道 #9(わたりとり)
私は弱くていいかげんな人間だから、人はみな自分を向上させるべきだなどという御高説は気分が悪い。(中略)私は自分の体力と耐性をよく知っている。このあたりだなと天井が見えている。天井はこれ以上高くはならない。
これが基点。で・・・

(2)「かけがえのなさ」 ことば探偵 第3回より(牛男さん、1へリンク)
かけがえのない「人」という存在に私が深く触れる、それを「出会い」と呼ぶ、その事実は永遠に覆されない、私はそれが妙に嬉しい。(中略)。「ああ、私はこの人と出会ったのだ」と私のなかに刻まれる瞬間は、私の意識とは無関係に予告なくやってくる、という感覚です

(3)星の王子様(chargeupさん、2へリンク)

(4)人間関係の贅沢(カッタウェイさん、3へリンク)

どの記事も好きです。
人と「出会う」ということ。二度と会うことのない出会いだったとしても、「出会い」が、弱いこの私を支えてくれるということ。を、改めて感じる。

 * * *

その一方で。

(5)そこに神はいない(chargeupさん)
私は人とのコミュニケーションは、一見良好なコミュニケーションであっても「内心に澱をつもらせる」作用があるという感覚を持っています。仲の良い友人とのコミュニケーションでも、ある。儀礼的な、建前的なコミュニケーションであるほど、大量に沈殿する。たまってしまった澱は、別のコミュニケーションによっては解消されないもの、「人」という存在から離れてひとりで浄化するしかないもの、という感覚を持っているんです。

これもまた私の本質。これこそが私の本質。
社会に出なければ生きてゆけない。他者に会わなければ「出会い」は生まれない。それはわかっている。しかし、社会に生きてゆくこと他者に会うことそのものは、私にとっては悦びではない。むしろ澱であり毒であり、私をゆっくり蝕み壊してゆくもの。

 * * *

「出会い」に救われ、「出会う」可能性を捨てきれない私。
でありながら、数少ない「出会い」に至るまでの道のりに疲弊磨耗し壊れてゆく私。

私はたいへんな欠落を抱えている。厄介なタチに生まれてしまった。
・・・と、明瞭に自覚したそのとき、私は『私』という存在を掴まえた。『私』と、出会った。

(6)「存在」と出会う(牛男さん、2へリンク)
「交換不可能性=かけがえのなさ」・・・なるほど。
私はなんでだか「かけがえのない」という言葉に、不完全さ、脆さ、とりかえしのつかなさ、みたいなものを感じていたんです。そのときかぎりのもの、だからこそ「かけがえがない」のだ、というカンジで。人の生はまさしくその意味で、かけがえのないもの、なんです。

私は、私自身のこの厄介な特性を修正したいと思わない。私の生い立ちのどこかのパーツを別のなにかと交換すればもっと生きやすい人間に育ったかもしれないが、そんなことも望まない。
私は、私の欠落が好きだ。この欠落が私に取り返しのつかない結末をもたらしたとしても、好きだ。





つまりな。
【わたりとり】のなかの「セルフ・エスティーム」たら「私:(他)軸」たらゆうんはな。あん人の、どもならん欠落の、自覚と肯定から生まれとるねん。
めっさポジティブなやっちゃろ。どんだけ根暗やねん。けっけっけ。(クチダケ鳥)