Home away Home #23

なにかの理由を探すときには注意を要する。

 

理論ばかり先行すれば「整合性」が解答の正しさにすり替わり、感情ばかり先行すれば「物語性」が解答の確かさにすり替わる。どちらも、その理由が本当の理由であることをなんら保証しないのに。
こと「人」にまつわる問いについては、理論と感情と経験とが結びつかないままの答えを、私は信用しない。三つの相関性に矛盾があるというところに答えが潜んでいることもあるだろうから、結びつき方はどうでもかまわないが、どの要素も落とさず、さらにそれぞれの繋がりを見たいと思う。

 

「Home away Home #1~#22」を書きながら、自宗派から離脱した理由を考えていた。とともに自宗派に対する自分の好感とイヤ感を拾い集め、眺めて、自分の感情の形と量とその後の変化を測っていた。
さらに、書いたものが自分の本音からズレているときは「なんかちゃうぞ」と私のなかで異議が囁かれ始めるので、「鏡、神々、戦わぬ道」を10枚書きつつ、離脱問題はしばらく寝かせておいた。

 

明らかな答えは、いまだにわからない。

 

私はたしかに、新興宗教に対する世間の偏見というものを敏感に感じ取っていた。匿名のブログでさえ過去の自宗派を明かせないほど、「具体的なラベル(名前)」を自分の身に貼ること貼られることを怖れている。我ながら意外だ。
しかし離脱した最大の理由は、他のもののように感じる。通して読んでくださっているかたは、その理由がどのようなものか、なんとなく感じ取られているかもしれない。私も同じように、なんとなく感じ取っている。言葉にするにはまだ少し確信が足りない。

 

感じ取っている答えが本当の答えかどうかは、いまこれ以上はわからないと思う。
私がこれから先、大きくつまづき転んだとき、その答えははっきりと輪郭を現すだろう。

 

そういうものだと思う。抜き差しならない現実の困難に遭ったとき、私が自分の苦しみや痛みをどのように引き受けるか、いっさいの理屈も意地も効かない場所に放り込まれたとき、私は何を取り何を捨てどう動くか、もう一度「人を超越した絶対者」に惹きつけられるのか、あくまでも私以外の絶対者は不要とするのか。その反応こそが私の奥底にあった本音であり、離脱の理由をも焙りだすと思う。

 

そんな日は来ないほうが幸せだけれども。来たら来たで、私はこう思ってニヤニヤ笑いそうな気がする。
「これで、解ける!」



アホじゃ。

 

 * * *

 

アホはまあ、いいとして。
私は汗をかくことがダイキライで、自室でひとり延々と脳を使うようなことばかりがダイスキで、実践とか経験とか重視したくない性質なのだが。それでも
>理論と感情と経験とが結びつかないままの答えを、私は信用しない
と書く、この矛盾は、やっぱり、信教からきてるんだろうなあ。