芋掘り遠足ノ漆

chargeupさんの記事「反対意見にレス」への感想です。感想のつもりが芋掘りになっちゃった。





反対意見にレス」にあった三つのレスパターン

わからない時は聞くのだ
 ○○様初めまして。コメントありがとうございます。ご意見もっともかと存じますが、○○様はご意見を基に私が記事を修正することを望んでいらっしゃるのでしょうか。それでしたらご期待には添えられない旨申し添えておきます。

一般的に
 ○○様初めまして。コメントありがとうございます。自分の考えをネット上にアップして他の人にご覧いただけるようになったことは、この時代に生まれた喜びであります。世の中には様々な個性があり、それを他所で拝見させていただくこともまたうれしいものです。今後ともご活躍をお祈り申し上げます。

心情に配慮しつつ
 ○○様初めまして。コメントありがとうございます。○○様がそのようなご感想を抱かれたということは、私の記事が○○様のお心を傷つけたのではないかと推察いたしました。そうであれば申し訳なく思います。しかし何分にも既に公開した記事であり、当方としても引っこみがつかないという事情もございます。寛大な思し召しを頂戴できますよう伏してお願い申し上げます。

最初に私がもった感想は「上手い」。・・・「御断り要件時のビジネス文章」として読めば、上手い^^;
語の言い回しがビジネス文章ぽいだけでなく、言い難いことを相手が怒らないようにだが要件を明確にスッパリと示し、丁重だが卑屈な調子でないという点で完璧。茶化してないです(ほんとです、ほんとに)。
丁重すぎて慇懃無礼の感がある点を除けば、私には違和感がないです。要件がはっきり言語化されている文章、私は好きなので。私の文章も情緒性より機能性重視だし(というより、文章に情緒をのせる器量が私にはない)。

ただ、んー、コメント者の反応は・・・個人同士のやりとりと思っていた場でビジネス文章然としたレスが返ってきたら、たいていの人はレスの内容を読み取る前に「文体への違和感」のほうが頭を占拠してしまだろう、と感じました。
もっとアッサリした文章なら大丈夫かな、と読み返してますが、うーん。アッサリしすぎると、ぶっきらぼうに見えるかな。うーん。

 * * *

ここから、危険地帯に入るかもな話。

初見の反対意見コメントに対して、chargeupさんが感じたこと・思ったことを的確に相手に伝えるためにどう表現すればよいか・・・という問題として「反対意見にレス」を読むなら、私は上のように感じるけれども。その後、違うんじゃないかな、と思い返しました。

その三つのレスは、chargeupさんの心情の表明を第一とした「表現」の問題ではなく。
初見で反対意見を述べてきたコメント者に、いかにして「反対意見は述べないで欲しい、もう来ないで欲しいという意味ではない、レスレスはしないで欲しい」という【意図】を伝え合点してもらうか、という「コミュニケーション」の問題、もっと言うと、コミュニケーションのレトリックの問題ではないか。と思ったのです。

そう捉えると。私はレトリックには関心がないので、なにをどう言い回せば上手く事が運ぶのかよくわからないのだけれども・・・こう感じました。率直に言いますぜ。

charegupさんが「反対意見」と感じるコメントを、コメント者が「反対意見」と自覚しているかどうか。自分のコメントを否定的であると認識しているかどうか。まずそっちに焦点を合わせる問題ではないか。
三つのレスはどれも、期待外の反応を引き出してしまうのではないか。コメント者から「そんなつもりではない」「自分は別に感情を害してはいない」といったさらなる否定レスレスが来そう、な予感が、満々にある。私には。

chargeupさんがどういったコメントを「反対意見」と感じたか、私も全ては知らないのですが、おそらく、それらは定型発達者が「反対」「否定」と捉える範囲から外れている。大きく、外れているのではないかと感じます。
おおかたの定型発達者が明瞭に自覚できる「反対」「否定」意見とは、相手に対して「いいえ」「違う」「~でない」と発話するものです。または、言葉として現れなくとも自分の意識のなかに「反」の意思が明らかにあって、そのうえで発話されているもの。
一方、相手方の認識の枠組みにない異種の・新規の情報を提示することは、どちらかといえば肯定的なコミュニケーションだと思われている。「参考にする」「勉強になる」「役に立つ」というやつですね。提示した情報が、相手の世界認識の枠組み・価値判断軸を揺さぶり打ち壊す可能性がある、ということは認識されていない。

chargeupさん、覚えていらっしゃいますか。言葉を交わすようになってから半年も経っていなかった頃、そちらのゲストブックで私が大失敗をやったことがあるでしょう。
chargeupさんに向かって、私が、「障害」「病気」という名付けによって人の困難をカテゴライズすることの弊害を述べかけた。間髪入れずに、chargeupさんから「否定しないでください」と止められました。chargeupさんがやっと手に入れた認識の枠組みを解除してしまうようなことを言わないでほしい、それは「否定」だと、あの一言で私は解った。明らかに伝えてくださったから。言われなければ解らなかった。
人との対話で学ぶ機会は多いが、あれほど深く学んだ一言は、他に無いです。

chargeupさんが「わたりとり」に付与してくださっているであろう信頼に期待して、念のために言うけれども。
おおかたの定型発達者の認識はこうなのだ、だから諦めたら、我慢したら、努力したらいい、などと言いたいのではないですよ。けして。

私にも、上手いやりかたが見当たらないのです。現時点では。言われて私が解ったことを、言われなくとも自ずから解る人は稀だろう。この問題がコミュニケーションのレトリックで解決できるとはちょっと思えない。どうしたもんだろう、と想う。
んー、ちょっと違うか。一時策としてはレトリックもあり、だけれども・・・この問題はとても深い、しかも、興味深く深いです。その深さから眼を逸らさずに、できることなら正面に据えて、じっくり見てみたいと想いつつあります。

寄る辺のない不安定な世界で、自分自身の世界認識の枠組み・価値判断軸を他者によって脅かされながら生きていることは、定型発達者も変わらないと私は思う。ただ、定型発達者は脅かすものに対する防衛の手法をさまざまに持っていて、自覚していないだけはないか。どのような手法があるのか。そこにどのような闇が巣食うのか。これは根が深い。たぶん、芋の宝庫だ、と私は感じる。

できることなら。芋を攻略した暁には、自分の認識をただひたすら護るだけでなく、異なるもの新しきものに向かって自己を開いてゆく方法がないか探ってみたい、という欲も私にはありますが。
それはもっとずっと先、できたらでかまわない、オマケの希望です。